越えて国境、迷ってアジア

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#44

マレーシア・マラッカ~インドネシア・ドゥマイ〈前編〉

文と写真・室橋裕和

 マラッカ海峡を越える。その航路は、アジアを旅する者にとってはひとつの憧れである。出発地となるマレーシア西岸の街マラッカはまた、かの名著『深夜特急』の舞台のひとつだ。僕は聖地巡礼さながら、物語のさまざまな場面を思い浮かべて街を歩いた。

 

 

マラッカ海峡の大きく、赤い夕陽

 僕は高空から海を見下ろしていた。およそ100メートルの高さから望むと、海の彼方にはぼんやりと陸地が見える。あちら側はインドネシア・スマトラ島だ。こちら側のマレーシア・マラッカとの間に広がるマラッカ海峡に、僕は特別な思いを抱いていた。
 旅人のバイブルとして名高い沢木耕太郎著『深夜特急』には、「マラッカ海峡の夕陽はとてつもなく大きく赤い」との記述があるのだ。その夕陽を見るために、彼はここマラッカの街を訪れている。僕も一度、この海峡を見渡したかった。
 しかし『深夜特急』の時代とは違い、マラッカの街は近代的に発展し、高層ビルやショッピングモールが立ち並び、海峡には埋立地が張り出し、海を見晴らせる場所は市内中心部には見当たらなかった。沢木氏は、海岸に沿って広がるサッカー場から堤防に出て巨大な夕陽と対面しているが、僕はムラナ・タミンサリに上った。通称「マラッカ・タワー」と呼ばれる展望台で、巨大な回転式の展望キャビンが地上から一気に上昇する遊園地のような施設だ。あいにくの天気で「とてつもなく大きく赤い夕陽」は残念ながら見えなかったが、それでも念願のマラッカ海峡をこの目で見たという喜びはやはり大きかった。
 しかし……このタワーにはよけいなサービスがついていたのだ。キャビンへと乗り降りする場所にこっそりカメラが仕かけられており、客を撮影しているのである。で、タワーが上昇し眺めを楽しんでいる10分ほどの間に、写真をどーんと引き伸ばして20センチ四方ほどのパネルにし、希望者にプレゼントするのである。その写真が出口にでかでかと展示されているのである。
「わあ、パパこれほしい!」
 と楽しげにパネルを見てはしゃいでいるのはマレー人やインド系の子供たちだ。そりゃあ家族連れはよかろうよ。思い出になるだろうよ。だが僕は孤独な中年男なのである。そんなもん、いらないよね……パネルコーナーをスルーしようとしたのだが、その中に自らの汚い顔面が大写しになった一枚を発見してしまい、思わず目をそむけた。しかも『深夜特急』に思いを馳せているのか、ひとりでニヤニヤしているではないか。こんなものが世間に晒されている……自らの指名手配写真を見ているような気分になり、いたたまれなくなってその場をあとにしようとすると、
「あっ、あなたパネルいらないの? よく映ってるわよ!」
 お節介な係員のおばさんがパネルを指差して大声で呼ばわるのだ。
「タワーの入場料金に含まれているんだから、ほら!」
 家族連れの視線が痛い。沢木さん助けてください……僕はおばさんの声を振りきり、早足でタワーを後にするのだった。

 

01

マラッカ・タワーから望むマラッカ海峡。水平線の彼方に見えるのはインドネシアのスマトラ島だ

 

 

沢木耕太郎の後を追ってマラッカを歩く

 タワーを出て大通りを渡った先には、小さな旅行会社があった。軒先には大きく「MELAKA-DUMAI PAGI:9.30AM PETANG:3.00PM」と書かれている。マラッカ海峡を越えてスマトラ島のドゥマイまで行く船のことだろう。今回の旅の目的は、沢木氏も果たしていない海峡越えにある。
 店頭の看板にはマレー語や英語のほか漢字も踊り、いかにも南国の華僑らしい古びた佇まいの店に入ると、華人らしきおばあちゃんが出迎えてくれた。
「うちの息子はシンガポールの日系企業で働いてるんだよ」
 とにこにこ話すおばあちゃんは、いまどき珍しい手書きのチケットをつくってくれた。チケットも電子化され、スマホの画面を提示してQRコードかバーコードをスキャンするだけの昨今、なんだか味わい深いものがあった。ドゥマイまでは税込み135リンギット(約3800円)なり。
 その後は大航海時代にこの地を支配したポルトガルやオランダの残した遺構を見て回り、観光客気分に浸った。映画版『深夜特急』で、主人公を演じた大沢たかおも訪れたスタダイスは、もはや僕にとっては聖地である。オランダ総督の住居であり植民地経営の拠点として建てられたこの赤い建物の階段を、大沢たかおは一気に駆け上り、マラッカ海峡に沈む夕陽が見える場所はないかと探すのだ。
 運動不足と中年化で最近ひざの調子が悪い僕は、当然ながら階段をホップステップする若さはなく、一段一段慎重に歩を進める。それでもスタダイスからさらに上、セントポール教会の建つ丘の上まで登ってくると、呼吸が乱れた。東西の観光客に混じって、弾む息でマラッカの街を見下ろし、沢木氏や大沢たかおの影を探した。

 

02

マラッカのシンボル、オランダ広場。ムラカ・キリスト教会は人気のインスタ映えスポットだ

 

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マラッカのチャイナタウンには、移民してきた華人とマレーの文化が融合した建築物が立ち並ぶ

 

 

いざマラッカ海峡越え!

 翌朝。スタダイスの立つオランダ広場から、マラッカ河を越えた対岸にあるイミグレーションに向かう。すでに我がインドマル号は河沿いに停泊しており、純白の船体が陽光に輝いている。なかなか頼もしい大きさじゃないか。
 天井が高く開放感のあるイミグレーション館内には各地へのフェリーのチケット売り場やカフェがあり、乗船を控えた人々が行き交っている。空港と同じようにカウンターでチェックインをし、荷物の検査を通過し、パスポートコントロールの列に並ぶ。何度経験しても、国を越える手続きには昂揚感を覚える。どんな国境越えでも、係官にパスポートを提出するときには新鮮な興奮がある。マレーシアの出国スタンプを押印する、タンという音に身が引き締まる。
 インドマル号に乗船すると、内部は300人ほどが乗れそうな広さだった。3分の2ほどの席が埋まっただろうか。僕の隣はマレー人のおばちゃんで、親戚に会いにインドネシアに行くのだという。
 そして定刻通りに、インドマル号はゆっくりと動きはじめた。いよいよマラッカ海峡を横断するのだ。テンションが上がる。船窓にかぶりつく。
 やがて港を出て、広い外海を船は走りだした。大海原にやはり目立つのは、巨大なタンクを搭載した、横倒しの高層ビルのようなタンカーだ。さすがは海上貿易の要衝、日本が輸入するエネルギー資源も80%がこのマラッカ海峡を通過するという。
 興奮を抑えられず船窓からタンカーの写真をばしばし撮っていると、機内食ならぬ船内食が配られた。紙のボックスの中には、カップケーキとゼリー、ミネラルウォーターが入っている。なかなかおいしい。さらには船員が座席を回り、希望者に両替を行なっているではないか。合法なのかどうかはわからないが、客のほうはスマホでレートを調べて見せ、なにやら交渉している。悪くないレートのようなので、僕もいくらか換えることにした。インドネシア側に両替できる場所があるかどうか、わからないのだ。
 そして出港から1時間と少しが経ったころだ。我がドコモからの通知でスマホが震えた。通信キャリアがマレーシアのMaxisから、インドネシアのTelkomselに変わった。国境を越えたのだ。ようし、と、闘志が湧いてくる。スマトラ島に向けて、インドマル号はさらに西へと進んでいく。


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このインドマル号でマラッカ海峡を越えていくのだ

 

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昔の航空券のようなインドマル号のチケットを持って、イミグレーションに向かう

 

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マラッカにあるフェリー乗り場&イミグレーションはなかなか近代的な建物だった

 

(後編に続く)
 

 

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*国境の場所は、こちらの地図をご参照ください。→「越えて国境、迷ってアジア」

 

*本連載は月2回(第2週&第4週水曜日)配信予定です。次回もお楽しみに!

 

 

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室橋裕和(むろはし ひろかず)

週刊誌記者を経てタイ・バンコクに10年在住。現地発の日本語雑誌『Gダイアリー』『アジアの雑誌』デスクを担当、アジア諸国を取材する日々を過ごす。現在は拠点を東京に戻し、アジア専門のライター・編集者として活動中。改訂を重ねて刊行を続けている究極の個人旅行ガイド『バックパッカーズ読本』にはシリーズ第一弾から参加。

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