ブルー・ジャーニー

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#44

アラスカ グレイシャーベイへ〈5〉

文と写真・時見宗和 

Text & Photo by Munekazu TOKIMI

深く遠い世界から 

 

 ダークブルーの海面が、こぶしほどの大きさの背びれに飛びつかれ、

楽しそうに笑う。

 水しぶきの向こうに、真っ黒な背中と真っ白な白い脇腹が見える。

 浮き上がり、沈み、石切りのようなジャンプの連続。

 硬質のゴムのような筋肉を身にまとったイシイルカ。

 

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 あらゆる哺乳類のなかで、体全体に対する心臓の大きさの比率がもっとも高いイシイルカ。強力なポンプが、生きる喜びを爆発させる。

 舳先が作る波に乗り、身体をひねり、仰向けになり、体を横に向けて背びれで水面を叩く。

 時速50キロ以上で泳ぐイシイルカにとっては、スキップほどのスピードなのだろうか。

 海の上の世界と下の世界を自由に行き来するその目に、世界はどのように映っているのだろうか。 

 

44

 

 シアトルを出航してから10日目、さいごの寄港地、スキャッグウェイを出航した船は、フーナ湾を横切り、湾岸水路の最深部にさしかかる。

 1794年、ディスカバリー号に乗ったジョージ・ヴァンクーバーが「おそろしいほど凍てついた景観」を目の当たりにして以来、この場所はアイシー海峡と呼ばれるようになった。

 海はあいかわらず揺りかごのようにおだやかで、空はどこまでも晴れ渡っている。

 小さな岬をまわりこみ、グレイシャーブルーの世界に滑りこむ。

 江戸時代の半ばを過ぎたころ、グレイシャーベイは存在していなかった。巨大な湾は氷河に埋め尽くされ、入り口は高さ50メートルを越える氷の壁によってふさがれていた。

 

35

 

 グレイシャーベイを埋め尽くしていた氷河は、劇的な速さで後退を開始。

 氷が消えたあとに、ウィスコンシン氷河期以来、1億8千年ぶりに大地がすがたを現した。

 草も木も生えていない、月の表面のように荒涼とした大地に立ったクリンギット族は、いまもなおグレイシャーベイを“故郷”と呼び、語り伝える。

──遠い昔、愚かな女が氷河を侮辱したために、怒った氷河は山を流れくだり、祖先をアザラシ猟の猟場から追い出した。氷河は祖先を(アイシー海峡)の対岸に追いやると、湾に腰を下ろし、住みついた。

 

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 ディスカバリー号から約100年後の1879年、アメリカの自然保護活動家、ジョン・ミュアがカヌーで湾岸水路を旅したとき、グレイシャーベイの氷河は、怒りが収まったのか、アイシー海峡から約70キロ後退していた。

 100年間で70キロ。地球上に、これほど速いスピードで氷河が後ずさりした場所はない。

 

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 ゴムボートに乗り移る。

 海、空、森、雪、見慣れていた景色が、ガラス戸を開け放ったかのように新鮮に感じられる。口に流れこんでくる空気の冷たささえも新しい。

 海面に手を伸ばし、流氷のひとかけらを口に含む。

 冷たさが引いたあとに、かすかな甘みが残る。

 標高4600メートルを越えるフェアウエザー(晴天)山。グレイシャーベイに流れこんでいる16の氷河は、ほとんど1年中雲に覆われているこの山から始まる。

 海岸線からフェアウエザー山までの距離は約30キロ。これほど急いで斜面を下り、海にそそぎこんでいる氷河もほかにない。

 16の氷河のひとつに近づく。

 グレーシャーブルーが鮮やかさを増し、サウン=ダウン(氷河が海に崩落する音)が大きくなっていく。

 

22

 

 降り積もった雪が氷に変わるとき、無数の微細な気泡が閉じこめられる。氷や多くの氷山が目に白く映るのは、この閉じこめられた気泡の表面が太陽光を反射するためだ。

 だが、氷河の深い部分で形成された氷は気泡を含まない。大地の形さえも変えてしまうほどの巨大な圧力に、気泡は追い出される。

 気泡を含まない純粋な氷は、光の青の波長だけを反射し、世界をグレイシャーブルーで彩る。

 

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 海に向かって進む氷河のスピードは、川の流れのように部分部分によって異なる。流れの速いところが、遅いところが、停滞するところがある。

 流れの速さのちがいは、海に氷を押し出す圧力にむらを生じさせ、ひとつ数百トンの氷柱や氷塊をパラパラはらい落とす。

 ごくまれに圧力がシンクロすると、氷壁全体がはがれ落ちる。

 巨大な氷壁がはがれ落ちると、破壊的な波が生まれ、数キロ四方にあるありとあらゆるものが一瞬にして飲みまれる。凍えるような水に落ちると、20分前後で心肺は停止する。

 

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 船が氷河に背を向けて動き始める。

 いつかまた、ここにもどってきたい。

 振り返ったそのとき、氷壁が大きくはがれ、深く遠い世界から沸き上がったサウン=ダウンが、グレイシャーベイにとどろき渡る。

 氷壁はスローモーションのように落ちていき、あとを追って、グレイシャーブルーのかけらが、きらめきながらダークブルーに溶けていく。

 

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 1億8千年前のウィスコンシン氷河期、アラスカとシベリアは陸つづきだった。

 いったいこの道の向こうにはなにがあるのだろう? ある日、探検家タイプのモンゴロイドがシベリアを旅立った。

 北米大陸にたどりついたときも、フェアウェザー山は雪雲に覆われていた。舞い降りたひとひらの雪は、降りつづく雪に埋もれ、氷河の奥底で深い眠りについた。

 ウィスコンシン氷河期は終わりを告げ、雪や氷が消えたあとに、ごつごつと荒れはてた大地がすがたを現した。

 やがて大地の表面は苔に覆われ、雑草が生い茂り、鳥や小動物がせっせと種を運んでハンノキを育てた。ハンノキはトウヒに場所を明け渡し、トウヒはツガに森の主役を譲った。

 シベリアからやってきたモンゴロイドの子孫たちは広がり、南下していった。北部でエスキモーになり、南東アラスカでクリンギット族やハイダ族となり、中西部に広がり、さらに南下をつづけた。南アメリカ大陸に渡ってインカ人の祖先になり、マプーチェ族になり、南の果ての海に生きるアラカルフになった。

 

45

 

 気温の上昇は大地を地球上の氷河を揺さぶり、フェアウェザー山の氷河も海に向かって動き始めた。

 200年かけてグレイシャー湾に運ばれたひとひらの雪は、ある晴れた日の午後、日本からやってきたモンゴロイドの子孫の前で、はがれ落ちた氷壁のあとを追って、きらめきながらダークブルーに溶けていった。

 大海の一滴となったひとひらの雪は、黒潮に乗り、ふたたび遠い世界へと旅立っていった。

 

(アラスカ編・了)

 

 

*本連載は月2回配信(第2週&第4週火曜日)予定です。次回もお楽しみに。

 

 

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時見宗和(ときみ むねかず)

作家。1955年、神奈川県生まれ。スキー専門誌『月刊スキージャーナル』の編集長を経て独立。主なテーマは人、スポーツ、日常の横木をほんの少し超える旅。著書に『渡部三郎——見はてぬ夢』『神のシュプール』『ただ、自分のために——荻原健司孤高の軌跡』『オールアウト 1996年度早稲田大学ラグビー蹴球部中竹組』『[増補改訂版]オールアウト 1996年度早稲田大学ラグビー 蹴球部中竹組』『オールアウト 楕円の奇蹟、情熱の軌跡 』『魂の在処(共著・中山雅史)』『日本ラグビー凱歌の先へ(編著・日本ラグビー狂会)』他。執筆活動のかたわら、高校ラグビーの指導に携わる。

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