ブーツの国の街角で

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#40

チヴィタヴェッキア : 支倉常長の足跡が残る港町

文と写真・田島麻美

 

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  先ごろ、『長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産』がユネスコに登録勧告されたというニュースを読んだ。日本におけるカトリック・キリスト教の伝来は、1549年にフランシスコ・ザビエルが宣教活動のために来日したのが始まりとされている。ザビエルと言えば、我が家の近所にある大きな教会が「聖フランシスコ・ザビエル教会」で、そのことを知った時、歴史の教科書で見たザビエルの肖像画が脳裏に蘇り不思議な親近感を抱いたことを思い出す。
  ローマは言わずと知れたカトリック・キリスト教の総本山がある街だが、実は今から400年以上も昔、日本人キリスト教徒として唯一、ローマ貴族に列せられた人物がいる。その人物とは、伊達政宗が派遣した「慶長遣欧使節団」の副使・支倉常長。伊達政宗の命により、スペイン国王・フェリペ3世、およびローマ教皇・パウロ5世への親書を携えて二つの大海原を横断した使節団の足跡を辿ってみよう。

 

 

 

 

 

ローマとチヴィタヴェッキアに残る使節団ゆかりの教会

 

 

 

   スペインのフランシスコ会宣教師とともに1613年、サン・フアン・バウティスタ号で月の浦を出発した支倉と使節団一行は、メキシコ、キューバを経由し、翌1614年の年末にスペインに到着。1615年1月に当時のスペイン国王フェリペ3世に無事謁見を果たし、国王の立会いのもとマドリードで洗礼を受けた後、支倉と使節団は次なる目的地であるローマを目指した。
  船旅を終えた一行は、古代ローマ時代からローマの主要港として栄えて来たチヴィタヴェッキアの港に着く。そこから陸路ローマに入った使節団は、当時のローマ教皇パウロ5世から盛大な歓迎を受けたと言われている。太平洋、大西洋を横断してはるばる遠方から訪れた使節団に、教皇がどれほど感激したか、想像に難くない。ローマ滞在中は、現在のローマ市庁舎の隣にあるサンタ・マリア・アラチェリ教会が使節団の宿舎として与えられ、支倉らは栄誉あるローマ市民権を授かる。一行の世話係を務めたのは名門貴族出身のボルゲーゼ枢機卿であったということからも、教皇パウロ5世の歓待の度合いがうかがえるだろう。
  無事に大役を果たした支倉と使節団一行はローマ教皇から伊達政宗への書簡と贈り物、そして帰路の旅の資金を受け取り、再びスペイン経由で日本へ帰国する。しかし、大航海の後にたどり着いた祖国では、すでに幕府により禁教令が出されており、使節団の正使であったスペイン人宣教師ルイス・ソテロは長崎で殉教。ローマ教皇、スペイン国王からの書簡を持ち帰った支倉常長も、通商交渉を成功させるという大志を果たせぬまま帰国の2年後に失意のうちに死去した。
  支倉らが最初に踏んだイタリアの地であるチヴィタヴェッキアは、イタリアと日本のキリスト教を結ぶ重要な場所となっている。現在、石巻市と姉妹都市になっているチヴィタヴェッキアの街には、1597年に長崎で殉教したキリシタン、宣教師ら26名の日本人殉教者のために捧げられた教会が存在する。1862年に建てられたフランシスコ会のこの教会は、遥か東方の島国で起こった悲劇を今なお世界中の人々に語り継いでいる。
 

 

 

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ローマ市庁舎があるカンピドーリオの隣に立つサンタ・マリア・アラチェリ教会が慶長遣欧使節団の宿舎だった(上)。チヴィタヴェッキアにある サンティ・マルティリ・ジャポーネズィ教会(日本殉教者教会)(中)。1862年に建てられた教会は第二次大戦で被害を受けたが再建され、1954年に日本人画家長谷川路可が6年の歳月をかけて内部のフレスコ画を完成させた(下)
 

 

 思わず胸が熱くなる着物姿の聖母マリア

 

 

  支倉常長と慶長遣欧使節団の足跡を探しにチヴィタヴェッキアへ向かった私は、駅に着くや否や日本殉教者教会を目指した。駅前の大通りから徒歩10分足らずで、その教会は見つかった。中へ入ると、5〜6名のイタリア人男女が忙しそうに動き回っている。掃除中だろうか、と思って一人の男性に尋ねたところ、「ああ、気にしないで。明日の洗礼式の準備をしているだけだから。ゆっくり入って見て下さい」と言ってくれた。それだけでなく、私が日本人だとわかると、男性は「せっかくだからこっちへおいで。近くでフレスコ画が見られるよ」と手招きし、特別に祭壇の中へ入らせれくれた。澄み切った空を思わせる真っ青な後陣の天井には、聖フランチェスコと聖フランシスコ・ザビエルに挟まれた着物姿の聖母マリアが描かれている。イタリアの教会で着物姿の聖母マリアに出会えるとは予想もしていなかった私は、感動で胸が熱くなった。さらに、祭壇の壁面左には支倉常長、右側にはチヴィタヴェッキアの守護聖人聖フェルミナ、そして壁面の下段には長崎で殉教した日本人キリシタンの姿を描いた「西坂の刑場」のシーンと教会内のフレスコ画を描いた長谷川路可の自画像も見られる。高校時代に修学旅行で訪れた長崎の教会を思い出しながら、遠く離れた二つの国を結ぶ不思議な絆に思いを馳せた。
 

 

 

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教会の正面祭壇のフレスコ画。天井にはアッシジの聖フランチェスコと宣教師聖フランシスコ・ザビエルの中央に、桃山時代の和服姿の聖母子像が描かれている。祭壇上部左手には、伊達政宗の命によりこの地に訪れた支倉常長の姿が(上)。西坂の刑場の一連のフレスコ画の中に、作者である画家・長谷川路可の自画像も見られる(中)。身廊にある礼拝堂のフレスコ画も全て長谷川路可の手によるもの。構図やモチーフはイタリアのフレスコ画と似ているが、繊細な色使いやタッチがどこか日本画を彷彿とさせる(下)。
 

 

 

 

 

支倉常長が上陸した海岸線を歩く

 

 

 

  教会を後にし、細道を左手に下っていくと、長い海岸線の遊歩道に出た。地中海の真っ青な水平線を眺めながら、400年以上も前にこの海を渡って来た使節団のメンバーは、一体どんな気持ちでこの海岸線を見つめたのだろうと想像してみる。椰子の木陰にレストランやカフェのテーブルが並ぶ風景は南国のヴァカンス地そのものだが、これはもちろん現代人の好みを反映させたもので、1600年代の初めにこの地に椰子の木があったとは思えない。美しく整備されたビーチや遊歩道も然り。支倉常長と使節団が見たであろう風景を、海岸線上に探してみる。すると、ビーチの先に巨大な要塞が見えた。現在はイタリア海軍の基地となっているこの巨大な「ミケランジェロ要塞」は、1535年にミケランジェロが完成させたもの。支倉らがチヴィタヴェッキアに上陸したのは1615年なので、恐らくこの要塞は目にしたであろう。涼しい潮風に吹かれながら海岸線の景色を楽しみ、要塞を脇目に見ながら港まで歩く。漁船がたくさん停泊している小さな港の先には豪華客船や巨大タンカーの近代的な港があり、多くの車が忙しなく行き交っていた。
 

 

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遊歩道沿いには、南の島のバカンス地を思わせる開放的なレストランやカフェが集まっている(上)。夏は海水浴客でにぎわうPirgo(ピルゴ)と呼ばれるビーチに並行して作られた遊歩道(中)。ミケランジェロが手がけた建築である『ミケランジェロ要塞』。現在は海軍の施設で、特別な日を除き非公開となっている(下)。
 

 

 

  海沿いの遊歩道から風格のあるリヴォルノ門をくぐって旧市街へ向かう。階段を登り切ると、右手に小さな広場が見えた。後ろからでもわかる袴姿の銅像は、支倉常長のものだ。銅像の前には、日の丸とイタリア国旗の看板もある。この像と慶長遣欧使節団の渡航ルートが描かれた石碑は、チヴィタヴェッキアと宮城県石巻市の姉妹都市条約締結20周年を記念して建てられたものであることがわかった。月の浦(現:石巻)を出航し、メキシコ、キューバ、スペインを経てチヴィタヴェッキアに至るまでの航路が描かれた石碑には、『伊達政宗の大使、支倉常長の旅』の文字。太平洋と大西洋、二つの大海原を横断した一行の旅がとてもリアルに感じられた瞬間だった。
 

 

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リヴォルノ門から旧市街へ向かう途中、マルコーニ通りにある支倉常長像と航海ルートの石碑。
 


 

 

旧市街で新鮮なシーフードを堪能

 

 

  支倉常長が残した足跡を求めて街のあちこちを彷徨い、教会で着物姿の人物像を見たり、紋付袴にちょんまげの銅像を見たりするうちに、なんだかこの街がとても近しく感じられるようになって来た。イタリアではなく日本のどこかの観光地にいるような錯覚に陥って来たのだ。バールでおしゃべりをした住民達も親日家ぞろいで、震災後の石巻市の復興について我が事のように心配してくれ、とても有難かった。別れ際、「チヴィタヴェッキアで他にオススメの見どころはありますか?」と尋ねると、バールの主人が「旧市街には中世の建物があるよ。大きなメルカート(市場)もあるから行ってみるといい」と教えてくれた。
  アドバイスに従って旧市街に足を踏み入れると、中世時代の塔の上に近代的な住居を継ぎ足したような不思議な建築が目についた。中心部にあるレアンドラ広場には、中世時代の城壁や建物が今も残されている。車が入ってこられない小さな広場なので、道行く人達もどこかのんびりとしていて居心地が良さそうだ。この広場を突き抜けると、道いっぱいに人々が溢れるメルカートにぶつかった。季節の野菜や果物、日常衣料品や水着、海水浴用品を売る屋台が細長い道いっぱいに並んでいる。四方の道に囲まれた中心の建物が屋内市場になっていて、その半分の大きなスペースを占めているのが魚市場だった。もう昼近い時間だったので魚売り場は店じまいを始めていたが、漁港から水揚げされたばかりの珍しい魚介類は見るだけでも興味深く、「これは何?どうやって調理するの?」と店主に質問するうちにお腹が空いて来た。そろそろランチとするか。
  メルカートの人達に訊いたところ、旧市街のレストランはどこも新鮮なシーフードが手頃な値段で食べられる、という話だったので、最初に心引かれた店に入った。港町ならではのフレッシュなシーフード・ミックスフライは、期待どおり文句なしの美味しさ。太陽の日差しを和らげるテントの下でキリッと冷えた辛口の白ワインを飲みながら、柔らかなイカとカリッとした小魚のフライを噛みしめる。支倉常長も、このフライに感動しただろうか。そんなことを思いながら、至福のランチタイムを楽しんだ。
 

 

 

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旧市街に残る八角形の塔の一部は、中世時代に街を囲っていた城壁の名残(上)。活気溢れるメルカートは見ているだけでも元気が出てくる(中上)。地中海で採れた魚介類。見慣れない魚や貝もたくさんある(中下)。街の名物、シーフードのフライ。カリッと揚げたて、ジューシーな味わいがたまらない(下)。
 

 

 

 

★ MAP ★

 

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<アクセス>

ローマ・テルミニ駅からチヴィタヴェッキアまで、各駅電車(5€)で約1時間、インターシティ(11,50€)で50分。各駅電車(=Regionale / レジョナーレ)は2種類あり、全駅に停車する電車だと1時間20分かかる。料金は同じなので、時間を節約したければ停車駅の少ないRegionale Veloce/レジョナーレ・ヴェローチェを選ぶのが得策。

 

 

<インフォメーション>

・チヴィタヴェッキア観光情報(伊語)

http://www.prolococivitavecchia.com/

 

 

 

 

 

*この連載は毎月第2・第4木曜日(月2回)の連載となります。次回7月26日(木)掲載予定です。お楽しみに! 

 

 

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田島麻美 (たじま・あさみ)

千葉県生まれ。大学卒業後、出版社、広告代理店勤務を経て旅をメインとするフリーランスのライター&編集者として独立。2000年9月、単身渡伊。言葉もわからず知り合いもいないローマでのサバイバル生活が始まる。半年だけのつもりで暮らし始めたローマにそのまま居座ること17年、イタリアの生活・食文化、歴史と人に魅せられ今日に至る。国立ローマ・トレ大学マスターコース宗教社会学のディプロマ取得。旅、暮らし、料理をメインテーマに執筆活動を続ける一方、撮影コーディネイター、通訳・翻訳者としても活躍中。著書に『南イタリアに行こう』『ミラノから行く北イタリアの街』『ローマから行くトスカーナと周辺の街』『イタリア中毒』『イタリア人はピッツァ一切れでも盛り上がれる』他。

 

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