ブルー・ジャーニー

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#37

スカンジナヴィア 神、生まれし地へ〈5〉

文と写真・時見宗和 

Text & Photo by Munekazu TOKIMI

小さな、ほんとうに小さな

 取材を始めてから3年目だった。

――100分の1秒を争う世界で2位を4秒以上も離してしまうつよさ。いったい、あなたはどのような世界を滑っていたのでしょうか?

 質問が適切ではなかったのかもしれない。そう思い始めたころ、インゲマル・ステンマルクは口を開いた。

「自分を取り巻く時間がゆっくり流れているように感じられました。なにも聞こえなかった。夢の中を滑っているようでした」

 

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 北極圏まで100キロ足らずの波止場町、ネスナで下船。いかにも人のよさそうなスキー場スタッフの、頑丈そうなジープタイプの4輪駆動車に荷物を積みこむ。

 神、生まれし地、ターナビーまで、残りわずか3時間。

「こっちに来るのは初めて?」

「初めてです。日本に行ったことは?」

「野沢温泉に一度。インタースキー(世界スキー指導者会議)に出席するために」

 ゆるやかに波打つ大地が、車窓に途切れることなくつづく。4月の初めだが、すべてが白く覆われている。

 スウェーデン北部の冬は、温かいときでマイナス5度から15度。寒いときはマイナス50度を下まわる。

 雪が溶けると、ある日、いっせいに木々が芽吹き、花が先開く。ステンマルクは言った。「ターナビーの春は1日か2日間なんだ」

 スピードメーターの針は、郊外に出てからずっと100の数字の上でこきざみに揺れつづけている。

「そういえば、今年の冬はステンマルクはよくターナビーに帰ってくるんだ」

「なんのために?」。1980年から、ステンマルクはモナコに住んでいる。スキーをしようと思うなら、ヨーロッパアルプスのほうがはるかに近いし、スケールの大きなスキーを楽しめるはずだが。

「なんのために?」スタッフは質問を繰り返し、少し驚いたような表情で言った。「スキーをするためだよ」

「さあ、ここからスウェーデンだ」

 パスポートコントロールも、柵も、土地を区切るものはなにもない。360度、白くうねる大地がどこまでもつづいている。 

 国境を越えてから約2時間後、ターナビーと頂上で連絡しているスキー場、ヘムマーバーンスキーに到着。スタッフに別れを告げ、用意されたシトロエンに乗り換える。

 真っ白い1本道を80キロ前後で走ること約15分、フロントガラスに、凍りついた大きな湖と、こぢんまりとした家並みが映る。

 地図を見る限り、このあたりにターナビー以外の村はない。

 ほどなくして滞在先のホテルに行き当たり、駐車場に車を乗り入れる。

 ドアの向こうから流れこんでくる、冷たく透明な空気に、肺がちりちりくすぐられる。

 

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 凍りついた道に靴音が響く。

 ポスターも看板もない。ここが、神、生まれし地だということを示すものが、まったく見当たらない。

 ステンマルクに関するほとんどの記述には、おおむねこう書かれている。

――5歳から16歳まで実家から200メートルほど離れたゲレンデでトレーニングを積み、世界にデビュー。ステンマルクの実家の前の通りは“スラローム通り”と呼ばれるようになった。

 何度も行き来し、ようやく“SLALOMV.9(スラローム通り9番地)STENMARK”の文字を郵便受けの上に見つける。

 ここか。車1台がようやく通れるほどの袋小路に立ち尽くす。ここが“スラローム通り”なのか。

 

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 ステンマルクの実家は“スラローム通り”をはさんで、ぽつりぽつりと建つ家のひとつで、湖を見下ろすように建っていた。

 壁が赤く塗られた横幅18歩ほどの平屋。玄関の横にスキーが立てかけられ、煙突から煙りが上っている。

 

 ステンマルクが小学校3年生のときだった。国語の授業で女性教師から“自分の将来の職業”について作文を書くように言われ、心のなかのたしかな思いを書きこみ、提出した。

『スキーレーサーになりたい』

 授業のあと、ステンマルクは女性教師に呼ばれ、言われた。「スキーは職業ではありません」 

 

 道路脇の細い木の杭にくくりつけられた白樺の横板に “Ingemar backen(インゲマル・コース)”の文字。

 実家から“Ingemar backen”に向かう道はゆるやかな上り坂で、おとなの足で約3分半、身体の芯が温まり始めてきたころ、ゲレンデが見えてくる。

 あの雪の上が明日の待ち合わせ場所だ。

 

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 ホテルに引き返し、アクアビットをグラスに注ぐ。つまみはレインディア(トナカイ)の燻製。

 アクアビットはジャガイモを原材料にウイキョウで味をつけたスカンジナビア北部の地酒。アルコール分は40〜50パーセント。テーブルにたらしてマッチの炎を近づけるとポッと燃え上がる。

 1989年、ステンマルクは志賀高原スキー場で引退。その翌年、奇跡的に取材する機会にめぐまれた。

 取材は思いがけず7年間つづき、その間に書き散らした文章を、1冊にまとめることになった。

 その第1章でステンマルクが生まれてから引退するまでの33年間を書き下ろすことになったのだが、寡黙の人から十分な言葉を引き出すには取材者の腕が未熟すぎた。

 とりわけ幼少時のことについては、曇りガラスの向こう側をのぞきこむようなインタビューとなった。

 ターナビーはもちろん、スカンジナビア半島北部を訪ねたことのなかったぼくには、たとえば「行動を制約するものがなにもない環境」がどういうものなのか見当もつかなかった。

 数少ないステンマルクの言葉を貧しい想像力でつなぎ合わせた文章は、当然のことながら、どうにもあやうく、うしろめたいものとなった。

 

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 暖炉で薪がパチパチ音をたてて燃えていた。

 夕方から降り始めた雪は、本降りに変わろうとしていた。

 1年に1度、世界各地――ナキスカ(カナダ)、レッヒ(オーストリア)、サンモリッツ(スイス)、サンモリッツ(スイス)、マンモス・マウンテン(アメリカ)、パノラマ(カナダ)――の雪の上で行ってきた取材の7年目、舞台をステンマルクが現役生活にピリオドを打った志賀高原にした。

 漆黒に踊る雪に、木々の枝がたわみ始めていた。

 アイスブルーの目がいつになく穏やかに見えた。

――現役時代のあなたにとって勝つことがすべてだったとは思えないんです。戦い以前に、いつもスキーを楽しんでいたように見えた。ステンマルクの中心にあったものはなんなのでしょうか?

 ステンマルクは、めずらしくソファーから身を乗り出し、言った。

「子どものとき、土いじりやトランプに時間を忘れて夢中になったよね。あれとまったくおなじことなんだよ」

 

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 カーテンを開けると外は快晴。

 “Ingemar backen”に向かう坂道を登りきると、ステンマルクは、それがステンマルクだとわからないほど、何気なくリフト乗り場の前に立っていた。

「こんにちは」

「Wellcome to turnaby 」

「ここがスキーヤー、ステンマルクは生まれ育った場所なんですね」

「子どものころはいまよりも標高差が小さかった。あの木の小屋がスタートハウスだったんだ。あと、ナイター照明は反対側についていた」

「ほかに変わったことは?」

「あとは前とおなじままだ」

 ステンマルクはひと通りコースについて説明すると、思い出したように言った。

「この間、ヴァッサ・ロッペに出たんだ」

 ヴァッサ・ロッペは1922年から行われているクロスカントリースキーの大会で、距離は世界最長の90キロ。コースレコードは3時間58分8秒。

「それはすごい。結果は?」

「参加者が1万5000人で、ぼくは1029位」そう言うと、ステンマルクはうれしそうに笑った。

 

“Ingemar backen”は、小さな、ほんとうに小さなゲレンデだった。

 標高差は約140メートル。滑走距離はロングターンで40秒足らず。斜度はスタート直後のもっとも急なところでも20度あるかないか。がんばれば初心者でもスキーをハの字に開いて、まっすぐに降りられてしまうほどだった。

 頂上に立つと、前方に凍りついた湖が、そしてその向こうに柔らかな起伏がどこまでもつづいていた。道路も柵も、人の匂いのするものはなにも見えなかった。

「これがあなたの裏庭?」

 滑り降りていこうとするそのうしろ姿に問いかけると、ステンマルクは振り返り、はずむように答えた。

「イエス!」

   

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(スカンジナヴィア編、続く)

 

 

 

*本連載は月2回配信(第2週&第4週火曜日)予定です。次回もお楽しみに。

 

 

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時見宗和(ときみ むねかず)

作家。1955年、神奈川県生まれ。スキー専門誌『月刊スキージャーナル』の編集長を経て独立。主なテーマは人、スポーツ、日常の横木をほんの少し超える旅。著書に『渡部三郎——見はてぬ夢』『神のシュプール』『ただ、自分のために——荻原健司孤高の軌跡』『オールアウト 1996年度早稲田大学ラグビー蹴球部中竹組』『[増補改訂版]オールアウト 1996年度早稲田大学ラグビー 蹴球部中竹組』『オールアウト 楕円の奇蹟、情熱の軌跡 』『魂の在処(共著・中山雅史)』『日本ラグビー凱歌の先へ(編著・日本ラグビー狂会)』他。執筆活動のかたわら、高校ラグビーの指導に携わる。

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日本ラグビー 凱歌の先へ
編著・日本ラグビー狂会

     

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