日本一おいしい!沖縄の肉食グルメ旅

日本一おいしい!沖縄の肉食グルメ旅

#34

日本復帰前の正しいカレー~『大衆食堂むつみ』

文・仲村清司

 

かつての日本人はどんなカレーを食べていたのか 

 ふと、思いついたのだが、自分が生まれた年に日本人はどんなカレーを食べていたのか? カレーはラーメンと並ぶ国民食。であるからして、カレーの戦後史を知る上でも気になるネタではないか。

 ワタクシの場合、カレーといえば「リンゴとハチミツ、とろーりとけてる」というCMソングで一世を風靡した『ハウスバーモントカレー(甘口)』が定番であった。

 というか、物心ついた頃から少年期を通して銘柄が変わることがなかったので、それが我が家の味だったのである。

 しかし、それは単なる思い込みであった。『ハウスバーモントカレー』が発売されたのは昭和39年。僕が生まれた昭和33年にはまだ開発されていなかったのである。

 ではそれまで僕はどんな銘柄のカレーを食べていたのか。調査を続けるとこれまた興味深い「史実」が浮かび上がってきた。

 昭和30年代、販売されていたカレールーには『オリエンタル即席カレー』や『即席ハウスカレー』、『ベルカレールウ』などがあったらしい。しかし、それらの商品は一般にはまだ贅沢品で、それほど普及していなかったという。

 当時、庶民が使っていたのは、カレー粉だった。そのカレー粉といえば今も昔もエスビー食品の「赤缶」である。といえばおそらく中高年世代はピンとくるに違いない。

 赤缶は昭和25年に日本で初めて開発に成功した純国産カレー粉で、味も缶のデザインも一度も変わっていない。そう考えると、日本人がもっともお世話になったカレー粉といっていい。

 そのカレーの香ばしい匂いが充満している台所で、調理をする母の姿はいまもまぶたの裏に焼き付いている。この頃はすっかり老婆になってしまったが、その時分はまだ30代の女盛りである。記憶のなかの母は割烹着姿で、水で溶いた小麦粉をカレー鍋に回し入れ、お玉で汁を繰り返しすくい上げていた。とろみ加減を確かめていたのだろう。

 我が家のカレーは仕上げの段階で何度も小麦粉を加える。この手法は『ハウスバーモントカレー』を使うようになっても受け継がれた。なので、かなりドロリとした胃にもたれるようなカレーだったが、いうなればそれがお袋の味であった。

 

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ハウス食品のロングセラー商品。僕らの世代はこれで育った

 

 と、半世紀前の遠い昔に思いを巡らせているうちにハッとした。

 そういえば、僕が生まれた頃、沖縄ではどんなカレーを食べていたのか? これまたたいへん気になるところではないか。

 というのも、当時の沖縄は「アメリカ世」(1945~1972年)と呼ばれ、まだ米軍統治下時代だったからである。

 通貨もドルなら車も右側通行で、米軍がもたらした食糧物資によって食生活もアメリカナイズされている。今に伝わるポークランチョンミートやコンビーフハッシュ、キャンベルスープなどが広く普及し、これらが地場の食文化と融合して「ポーク玉子」に代表されるような料理が定着したのもこの頃である。

 そういう時代にあって、沖縄ではどのようなカレー文化が存在していたのか。いや、そもそもカレーが食されていたのかどうかも興味深い問題である。

 というのも、カレーの原料になるターメリックやクミン、コリアンダーなどのスパイスは、そのほとんどがインドや東南アジアからの輸入品。日中戦争から太平洋戦争に突入する頃には物資統制によって入手困難になっていたのだ。

 これによって国内のカレーメーカーはカレー粉が製造できない状況に追い込まれ、太平洋戦争が勃発した昭和16年になると軍隊用を除いて製造中止になる。このような状態は戦後になっても続き、製造が再開されたのはようやく昭和25年になってからである。つまり、その間、カレーは一般家庭の食卓から姿を消していたというわけだ。

 といっても、それは日本本土の場合である。戦後、米軍の統治下に置かれた沖縄のカレー事情はどうだったのか。

 

 

米軍統治下時代から変わらない、黄色いカレー

 いやはや、大問題とぶち当たってしまった。そこで、米軍統治下時代から営業を続けている食堂はないかといろいろ調べてみると──。

 探してみるものですな。ありましたぞ。僕が生まれたちょうど1958年に創業した食堂が、国際通りの旧三越裏で営業していて、カレーは創業当時の味だというではないか。

 その名も『大衆食堂むつみ』──。場所柄、訪れたことのある人も多いかもしれないが、観光地のど真ん中なので僕は一度も入ったことがなかった。

 店名は、むつみ橋交差点からとったもの。現在、橋は架かっていないが、1965年に暗渠が完成するまで、店の脇をガープ川と呼ばれる河川が流れていた。むつみ橋の地名はその名残である。  

 さっそく扉を開けると……。

 店内はうなぎの寝床のように奥に細長く、レトロな4人用のテーブルと椅子が縦に並んでいる。照明も明るすぎず暗すぎず、ほっと一息つける雰囲気。壁面と床は渋みのある飴色で染まり、店のなかの空気まで昭和の世界がこびりついている佇まいである。

 なにやら上野や日暮里あたりの裏通りにある食堂に入ったような気分である。お昼時とあって20席ほどの客席はほぼ埋まっていた。奥から沖縄そばを食べている女子修学旅行生4人、続いてOL3人組、豆腐の味噌煮や煮付けを食べている買い物おばさん3人、アパレル関係の店員さん4人という構成。立地からいって、なるほど納得の光景といっていい。

 納得いかないのが僕の座っているテーブル席である。なぜか定職のなさそうな一人客のオッサンばかりなのである。まあ、僕自身が歴とした非正規雇用者だからエラソーなことはいえないのだが、こういう場合は相席になるのが鉄則。我がテーブルはすぐさま一人客のみで埋まってしまった。

 ひとつのテーブルに見ず知らずのやさぐれた男4人が一堂に会するというのは、風景としていささか問題がありすぎる。それぞれが初顔合わせなので、当然のことながら皆ぎこちなく、たちまち視線のやり場に困り果てるオヤジ同士になってしまった。

 真っ昼間、不意に起きてしまった緊張感……。隣のオッサンは眼下の沖縄そばを黙々とすすり、斜め正面のオッサンは新聞を広げ、また、真正面にいるオッサンは腕組みをしながら宙の一点を見つめている。そうして、ワタクシも天井やや右方面を眺めながらカレーを待つオヤジとなっていた。

 それより気になることがあった。

 というのも、正面のオッサンは席につくなり、「ミーチね」と意味不明のオーダーをしたのだ。

(なんのことだろう?)

 メニュー表をチラ見するものの、そんなお品書きはない。ないけれど、店のおばさんも「あいよ」とばかり、その注文をあ・うんの呼吸で通したのである。

 顔見知りの客に裏メニューを出す店もあるから、もしかするとその手の客の特別メニューなのだろうか。だとすると「ミーチ」はその符丁かもしれない。なにしろ創業半世紀以上のお店なのである。そんな裏システムがあってもおかしくはないのだ。

 ワタクシはそういう選民主義を不快に思うタチである。狭量なヤツだとそのオッサンをチラチラ見ると、あちらも僕の気配に気づいたのか、こちらをチラチラみる。

 僕とヤツは地政学的に紛争を招きかねない位置関係にある。テーブルをはさんでさらに緊張が走った。

「ドン!」と眼前にカレーライスが置かれたのはまさにそのときだった。

 

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『大衆食堂むつみ』のカレーライス。日本の正しいカレーの色が印象的

 

 冷戦をすぐさま回避し、運ばれた皿をしげしげと検分する。

 ワンプレートにサラダが添えられたカレーは淡黄色。具はジャガイモ、ニンジン、タマネギ、グリーンピース少々。見るからに正しすぎる伝統的な日本の黄色いカレーである。豚肉王国らしく豚のコマ切れ肉がまんべんなく敷き詰められている点も十分好感がもてる。しかもスープ付きなのである。

 思えば我が家のカレーもなぜか永谷園のお吸い物がいつも添えられていた。

(おお、これぞまさしく半世紀ぶりの光景!)

 思わず喜色の笑みを浮かべると、例のオッサンがまたこちらをチラ見している。

 いちいち気にさわるオッサンだ。むろんそんな挑発行為にはのらない。

 カレーだけに集中! まずはルーを舌にのせる。たおやかなカレー独特の香りが口中に広がり、同時に和風だしの香気がふんわり鼻に抜けていく。

 塩気がやわらかい! といっても味が薄いというのではなく、ウスターソースをかけ回したくなる昔ながらのあの味だ。

(なるほど、沖縄も内地と同じカレーを食べていたというわけか)

 よくよく考えてみれば米兵は日本のような煮込みカレーは食べないし、米軍統治下の沖縄にも本土の調味料や食品は大量に入っていたのである。

 けっしてガツンとこない辛すぎないカレーを咀嚼しながら、僕はあることに気づいた。

沖縄ではレトルトカレーも初代ボンカレーがいまもダントツの人気ブランドになっているのだ。味覚に対して沖縄人は保守的といわれる由縁である、

(沖縄は昔の味を好むということか……)

 とすれば、沖縄の大衆食堂では黄色いカレーが主流になっても不思議でないし、事実、老舗の食堂は例外なく黄色いカレーが出てくるといっても過言ではない。

 早い話が沖縄には僕のような還暦前の世代こそ分別できる味があるというわけだが、それより何より自分が生まれた年のカレーを食べているのである。そう思うと、なんだか胸が熱くなる。

 

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これぞ、自分が生まれた頃に沖縄で食べられていた黄色いカレー

 

 とそのときであった。くだんのオッサンに「ミーチ」が運ばれてきたのは……。

 なんのことはない。焼き鯖とマグロの刺身に野菜炒めがついた定食であった。これがどうして「ミーチ」なのか。

「それ、何ですか?」

 意を決して、オッサンに聞いてみた。すると彼は一瞬、怪訝な表情を浮かべながらも、メニュー表を指さして、こう言い放ったのであった。

「ほら、三定食。ここの名物だよ」

 なるほど、メニュー表には確かに「三定食」とある。

 聞けば、これは方言読みのメニューとのこと。鯖と刺身と味噌汁の三点セットになっているから、『ミーチ=三つ』になるそうで、『ミーチグヮー』とも呼ばれているのだそうだ。グヮーは漢字を当てると「小」、大阪でいう飴チャンのチャンにあたる愛称で、つまり、「三つ小」というわけだ。

「だから兄さんの食べているのはカレーグヮー、そばはスバグヮーさぁ。まあ、そうはいわんけどね、ムハハ」

 気さくなオッサンではないか。どうやら、お互い正面を向き合っているから視線が必要以上に重なっただけのようだ。というわけで、冷戦はあっさり終結。馴染み客と新参者はここに和平条約を締結させたのであった。

 それにしても、「ミーチ」とはよくいったものだ。なんとも愛らしいネーミングである。

 

 店の人に聞くと、カレーは小麦粉とカレー粉(赤缶)を炒め合わせ、鰹と豚、昆布、椎茸でとったダシで伸ばして調味するという。これが創業以来のダシのとり方で、店のあらゆる料理に使われている。

 いわば味の決め手となる調味料である。那覇市民を半世紀以上も飽きさせず通わせた秘訣はどうやらそこにありそうだ。店のたたずまいといい、料理といい、なにやら食堂の戦後史を食べているような気分になった。ところで、僕はこの店でもうひとつ重大な発見をさせてもらった。

 沖縄の食堂で出される料理はどこも量が多すぎるのだが、この店のカレーは適量で、初老期の僕にはぴったり。すっきりすこやかに胃に収まった。

 これも創業当時からの分量なのだそうだ。ということは復帰前の食堂はいまのようにメタボまっしぐらの巨盛り路線ではなく、これぐらいの量がノーマルサイズだったのかもしれない。

 そんなことを想像している間にも、引きも切らずにお客さんが入ってくる。

 次回、訪れたときはミーチグヮーで勝負だなと、カレーグヮーを食べ終わった僕はシーハシーハしながら固く決意したのであった。

 

 その後、『大衆食堂むつみ』は散歩がてらに寄る店のひとつになっていたのだが、残念ながらこの老舗も今年(2017年)の1月31日をもって、58年におよぶ歴史に幕を下ろすことになった。店主の高齢化と後継者がいなかったことが理由である。

 ここ数年、同じような事情で廃業をやむなくされる大衆食堂が激増している。沖縄は「移り世」に入ったと形容すべきか。「消えゆく沖縄」の風景はこういうところにも象徴されている。

 幸いなことに、読谷村にある沖縄そばの名店がこの場所を引き継いだ。その名も『金月そば国際通り むつみ食堂店』。看板回りを除けば、外装・内装ともほぼ以前のままである。

 そしてメニューはというと──、なんと水曜日限定で「黄色いカレー」が残ったのである。むろん、味はリニューアルされているのだろうが、家庭料理の王様というべき黄色いカレーがこの場所でバトンタッチされたことはめでたい。

「カレーそば」も大いに気になるところだが、黄色いカレーファンとしてはとにもかくにも水曜日が待ち遠しくて仕方ない。

 

●『金月そば 国際通りむつみ食堂店』

住所:沖縄県那覇市牧志2丁目1-16

 

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レトロな佇まいを残した『金月そば国際通り むつみ食堂店』の外観

 

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リニューアルしても黄色いカレーは健在。カレーそばも人気

 

*番外編、次回も続きます。お楽しみに!

 

 

 

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*本連載は、仲村清司、藤井誠二、普久原朝充の3人が交代で執筆します。記事は月2回(第1週&第3週木曜日)配信予定です。次回もお楽しみに!

 

 

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仲村清司(なかむら きよし)

1958年、大阪市生まれのウチナーンチュ二世。作家、沖縄大学客員教授。1996年、那覇市に移住。著書に『本音で語る沖縄史』『消えゆく沖縄 移住生活20年の光と影』『本音の沖縄問題』『ほんとうは怖い沖縄』『島猫と歩く那覇スージぐゎー』ほか。共著に『沖縄 オトナの社会見学 R18』(藤井、普久原との共著)のほか、『これが沖縄の生きる道』『沖縄のハ・テ・ナ!?』など多数。現在「沖縄の昭和食」について調査中。

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藤井誠二(ふじい せいじ)

1965年、愛知県生まれ。ノンフィクションライター。現在、沖縄と東京の往復生活を送っている。著書に『人を殺してみたかった』『体罰はなぜなくならないのか』『アフター・ザ・クライム』ほか、共著書多数。『漫画アクション』連載のホルモン食べ歩きコラムは『三ツ星人生ホルモン』『一生に一度は喰いたいホルモン』の2冊に上梓。最新作『沖縄アンダーグラウンド──消えた売春街の戦後史と内実』刊行予定。

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普久原朝充(ふくはら ときみつ)

1979年、沖縄県那覇市生まれ。建築士。アトリエNOA、クロトンなどの県内の設計事務所を転々としつつ、設計・監理などの実務に従事する。街歩き、読書、写真などの趣味の延長で、戦後の沖縄の都市の変遷などを調べている。本書の取材を通じて、沖縄の伝統的な豚食文化に疑問を持ち、あらためて沖縄の食文化を学び直している。

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