越えて国境、迷ってアジア

越えて国境、迷ってアジア

#33

はじめての国境越えから生まれた『バックパッカーズ読本』

文と写真・室橋裕和

 

 2017年7月に『最新改訂版 バックパッカーズ読本』が発売された。旅人たちに読み継がれてきたこの本も、その第一作は20年前にさかのぼる。当時、どういった経緯で『バックパッカーズ読本』は生まれたのだろうか。
 

 

個人旅行の情報に乏しかった時代

 国境を越える船に乗りながら、僕は興奮していた。飛行機以外で国境を越える、はじめての経験だった。
 エジプトからヨルダンへ、紅海を渡っていく。
 いま、僕の目の前に広がっているのは、その名前とはだいぶ異なる紺碧の青だった。波頭の彼方には茶褐色の、緑のない山塊が霞んで見える。サウジアラビアだろう。観光ビザというものが存在せず、一般の旅行者は立ち入れない、禁断の国……そんな大地を目の当たりにしながら、紅海をゆく。船の欄干をつかんで併走するカモメを見やり、僕は物語の主人公になったような気分に包まれていた。20数年前のことである。

 国境越えの航海にテンションが上がりつつも、僕は同時に疑問も感じていたのだ。
 どうしてこんなに素晴らしい旅のことが、世に知られていないのか。
 その当時、僕のように個人でふらふらと外国を旅するスタイルは、一般的ではなかった。「ツアー以外で、どうやって海外に行くんだよ」と友人に笑われたこともあった。
 インターネットはまだ未発達で、安宿街の国際電話屋に少しずつ重々しいデスクトップが置かれはじめ、Hotmailってのがあってな……と旅行者たちに語られるようになってきた時代だ。
 旅の情報はガイドブックとか各国の政府観光局くらいだった。それも、ほぼすべてがツアー客向けの内容だ。個人旅行者に役立つ情報を載せていたものは『地球の歩き方』か『旅行人』くらいだった。だが前者はこの頃すでに読者層にツアー客も取り込みはじめていたので中途半端であり、後者はすでに旅を何度も重ねた経験者向けの内容だ。マニアとしては当然『旅行人』を愛読してはいたのだが、新規参入者には厳しい世界だよなあ、と思っていた。

 

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どうにかして旅の世界を知らせたい

 例えば、この船のチケットはいったいどこで買ったらいいのか。このルートでヨルダンに入る場合、ビザはどうすればいいのか。向かう先のヨルダン、アカバ港で安宿はどこにあるのか。そこから首都アンマンに向かう安い交通機関はなんだろう……。
 そんな情報を僕は、エジプトを旅している間にすれ違った旅行者たちと話しながら手に入れていった。ガイドブックに情報はわずかだったからだ。あるいは、各地の安宿に置かれていた情報ノートを参考にした。旅人たちが通り過ぎてきた土地の様子や、居心地のいい宿のこと、ビザや国境越えや交通のノウハウなどを好き勝手に綴ったもので、日本語のものもたくさんあった。いまはネット上の掲示板やSNSに取って代わられているが、当時は貴重な情報源だったのだ。
 しかしこうして情報を集めて中東くんだり旅ができるのも、経験があればこそ。なにも知らない人たちは、まずどうやって旅に取っかかればいいのか。僕はなにひとつ知識も経験もないまま海外に突っ込んでしまい、実地で学習していったが、世の中そんな計画性のない人ばかりではない。
 だから「これを読めば、誰でもひとり旅に出られる」ような、旅の初心者に向けた情報を集めた本があったら、便利なのではないか。
 世界各国に散らばる情報ノートを整理整頓し、さらに個人旅行のノウハウを詰め込んで、ひとつの本にできないか……僕はそんなことを、おぼろげに考えていた。
『地球の歩き方』や『旅行人』とも、著名な作家やライターが書いた海外紀行とも違う、純粋な旅のマニュアル。そう呼べる書籍は、英語の『Lonely Planet』くらいしか僕は知らなかった。
 そんな本をどうにかして書いて、世に出したい……そう夢想するようになったのは、大学卒業を控えた頃のこと。というのも、旅にハマるあまり就職活動を無視し続けた結果、進路に困ってしまっていたからだ。
 貧乏旅に取り憑かれた人間のうちけっこうな部分が、カメラマンになりたいとかゲストハウスを経営したいと思うように、僕もライターになろうと思いはじめていた。
 それは単なる「逃げ」だったとは思う。でも、ひとりで旅を切り拓いていくという世界があるということを知ってほしい、こんなにも豊かな旅のスタイルを経験してほしい……そう強く思ってもいた。
「バックパッカー」という言葉が、日本ではほとんど知られていなかった時代のことだった。

 

 

エジプトでの縁がきっかけを与えてくれた

 その半年後……僕は怒りに震えていた。
 ヒッチハイクでユーラシアを旅していたとあるタレントたちが、陸路でタイからミャンマーに入り、ミャンマーからまたインドへと国境を越えたというのだ。その様子を放映するテレビ番組に、僕は青筋を立てて指を突きつけた。「ふざけるな!」バックパッカーたちの間では、ミャンマーは(その頃は)陸路での出入国ができないことは常識だった。
 当時の僕に、その事実を訴える手段はなかった。結局、大学を卒業したものの行き場のないフリーターである。ライターになりたいと思ってはいたが、書き立てる媒体ひとつ持っていない。いまと違ってブログもSNSもない。
「国境越え、なめんじゃねーぞ」
 無力な僕は、そう呟くしかなかった。
 どうにかして、バックパッカーの世界を広めなくてはならない。そんな決意を深めていたある日、声をかけてきた男がいた。Nである。
 彼は、紅海で僕が生まれてはじめて国境越えをしたときに、実は同行していた男である。カイロで出会い、シナイ半島で再会したことがきっかけで、しばらく一緒に旅をしたのだ。年が近かったこともあり、ふしぎと気が合った。
 Nは帰国後、とある編集プロダクションに就職していた。旅関連の書籍や雑誌に携わっているようだった。そんなNの会社に持ちこまれたのが、「バックパッカーものの書籍をつくりたい」という話だった。背景には、前述のタレントたちのテレビ番組が人気を博し、ヒッチハイクや個人旅行がはやりだしていたことがあった。
「なにか書いてみないか」
 そんなNの提案に大いに乗ったのだが、いったいどういう経緯か、僕がその本の大半を書くことになったのは予想外だった。経験のない素人に、よくもまあ一冊ほぼ丸ごと投げる気になったものだと思う。
 せっかくだからと、僕は異様な熱意を込めて書いた。バックパッカー旅行にはなにを持っていけばいいのか。どんな服装で、いくらくらいの予算が必要で、現地ではどんな食生活になるのか。安宿とはどんな設備があって、どんな連中が泊まっていて、どんな出来事が待っているのか。アジアに知られた有名なバックパッカーの伝説、旅人が集まる安宿街というものが世界にはあるということ、ビザ取得の裏話、陸路で国境を越えていく面白さ、赤痢に罹ったときの体験談、そしてどんな旅でも必ず「やってきてよかった」と心の底から思える瞬間があること……。
 こうして1998年に、『バックパッカーズ読本』の第一作が完成した。僕のライターとしてのデビュー作でもあったこの本は、なぜかけっこう売れた。どれほど売れたかといえば、およそ20年後のいまも健在で、先日またもリニューアルして再び新規に発売された、くらいである。

 

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記念すべき第一作の『バックパッカーズ読本』。表紙はいまどき珍しい(そしてとってもぜいたくにも)版画なのである。
 

 今回で5度目のリニューアルになると思う。時代に合わせてバックパッカーの旅のスタイルも『バックパッカーズ読本』もすいぶんと変わってきたが、ひとつ言えることがある。
 それは、こうして版元がお金をかけてリニューアルするくらいには、需要があるということだ。旅行者が減ったとか若者が内向きとか言われていても、それでも世界を見てやろうと思い立つ人たちは、どんな時代だって一定数は存在する。その証明であるようにも思うのだ。


 

*好評発売中!

『最新改訂版 バックパッカーズ読本』

発行:双葉社 定価:本体1600円+税

 

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*国境の場所は、こちらの地図をご参照ください。→「越えて国境、迷ってアジア」

 

*本連載は月2回(第2週&第4週水曜日)配信予定です。次回もお楽しみに!

 

 

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室橋裕和(むろはし ひろかず)

週刊誌記者を経てタイ・バンコクに10年在住。現地発の日本語雑誌『Gダイアリー』『アジアの雑誌』デスクを担当、アジア諸国を取材する日々を過ごす。現在は拠点を東京に戻し、アジア専門のライター・編集者として活動中。改訂を重ねて刊行を続けている究極の個人旅行ガイド『バックパッカーズ読本』にはシリーズ第一弾から参加。

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