ブルー・ジャーニー

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#32

アラスカ 燃える闇〈3〉

文と写真・時見宗和 

Text & Photo by Munekazu TOKIMI

森のすぐ向こうのできごと

 

 空の青が藍色に移り変わり、フートゥリナナ川の向こう岸の木から青白い炎が上がった。

 たよりなく揺らめいていた炎は、みるみるうちに木立を覆い、燃え上がっていった。

 

3201

 

 一九九二年、四月二八日、夜明け前。フォードのピックアップトラックのドライバーの目に、震えながら親指を立てている若者の姿が映った。フェアバンクスからアンカレッジに向かって六キロ余り走ったところだった。

 車に乗りこんだクリストファー・ジョンソン・マッカンドレス(二四歳)は言った。

「デナリ国立公園まで乗せていってください。森の奥に入って、何ヵ月間か、土地が与えてくれるものだけを食べて生活するんです」

 話すうちに、マッカンドレスの聡明さに気づいた運転手は、なんとか思い止まらせようとしたが、若者の意志は固かった。

 ハイウェイから離れ、春の雪に覆われた道を一五キロほど走ったところでピックアップトラックは止まった。

 森の中に消えていくマッカンドレスの姿を見ながら運転手は思った。

「たぶん、すぐに腹をへらしてハイウェイに出てくるだろう。まともな人間なら、そうするに決まっている」

 気温は〇度を下まわっていた。夜になればマイナス一〇度を下まわることは確実だった。

 

3202

 

 一九九二年九月六日、ヘラジカを追って森に分け入ったハンターたちは、約三〇年前、頓挫した道路建設の従業員の宿舎として使われ、放置されたバスからひどい悪臭が漂ってくることに気づいた。

 ドアのすきまから、きちんとしたブロック体で書かれたメモがテープで貼られているのが見えた。

 

――SOS。助けてほしい。怪我をしている。重傷で、ひどく弱っており、ここから脱出できないでいる。ぼくは独りぼっちです。これは悪ふざけではない。お願いだから、どうか待っていて、ぼくを助けてください。すぐ近くへベリーを採りに出かけていて、夕方にはもどってきます。よろしく、クリス・マッカンドレス。八月?

 

 目に入った木片には、こう刻まれていた。

 

――ジャック・ロンドンは王様である。

             アレグザンダー・スーパートランプ

 

“アレグザンダー・トランプ”は、マッカンドレスが二年に及ぶ放浪の旅で使っていた名前だった。

 窓からのぞくと、レミントンのライフル、プラスチックの弾薬箱、数冊のペーパーバッグ、数本のぼろぼろのジーンズ、調理器具、バックパック、いちばん奥の簡易ベッドに寝袋が横たわっているのが見えた。

 中に入るのがためらわれ、うしろの窓にまわりこむと、寝袋から人間の頭がのぞいていた。

 

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 マッカンドレスはヴァージニア州アナンデール近郊の裕福な中流階級に生まれ育った。

 物心がつくと、ジャック・ロンドンに夢中になった。『荒野の呼び声』『白い牙』『焚火』『極地のオデッセイ』『ポルポルツュクの知恵』のアラスカとユーコンの描写を何度も読み返した。

 やがてレフ・トルストイに心酔するようになった。エモリー大学に入学し、ひとり暮らしを始めると、禁欲主義的でモラルに厳格なトルストイ的の生き方をまねるようになった。

 成績は優秀でスポーツマンとしてもエリート。「いい子」で学校生活を送ったマッカンドレスは、エモリー大学を優等で卒業した直後の一九九〇年八月、二四〇〇〇ドルの預金を全額慈善団体に寄付し、名前をアレグザンダー・スーパートランプに変え、だれにも告げずに放浪の旅に出た。

 旅の途中で車を乗り捨て、持ち物のほとんどを放棄し、西海岸を中心にアメリカ合衆国をほぼ半周。メキシコまで足を伸ばし、それからアラスカに向かった。

 地図に記載されていない場所を放浪したかったが、一九九二年の地図には、アラスカのどこにもそんな場所はなかった。空白を作るためにマッカンドレスは地図を捨てた。

 フェアバンクスにやってきたマッカンドレスは、アラスカ大学に行き、キャンパスの書店で地域の食用植物を網羅的に調査した学究的な原野ガイド『タナイナの植物伝承研究、デナイナ・ケッチュナ;アラスカ中南部のデナイナ・インディアンの民族植物学』を購入した。

 

3204

 

 中古のライフルを肩にかけ、グレーのフォードのピックアップトラックから降りたとき、持っていた食料は五キロ足らずの米とドライバーから手渡されたチーズとツナのサンドイッチとコーンチップ一袋。バックパックのなかでいちばん重いのは九〜一〇冊のペーパーバックだった。

 太ももほどの深さのテクニカ川を渡り、氷が張ったビーバーの池をいくつも越え、放置されたバスで四日間小休止したあと、マッカンドレスは徒歩旅行を再開。ベーリング海峡まで八〇〇キロを歩くつもりだったが、解けてぬかるんだ大地に足をとられ、二週間で進んだ距離はわずか一五キロ。原生林を旅するには夏よりも冬のほうがいいことを思い知り、バスに引き返すことに決めた。

 アメリカ地質調査所の地形図には、バスの真南約一〇キロに国立公園部の小屋があること記されており、そこには緊急時の食料、寝わら、加えて、冬のパトロールの勤務につく僻地のレンジャーたちが利用する救急用の補給物資が少量備蓄されていた。地形図にはなかったが、そこより三キロバスに近いところに、犬ぞり使いとデナリ国立公園の職員の小屋が二棟建っていた。

 だが、マッカンドレスにはそれを知る手段がなかった。

 

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――二年間、彼は地球を歩いている。電話もなく、プールも、ペットも、タバコもない。究極の自由。極端な人間、路上が住居の美の旅人。アトランタから逃れてきたのだ。汝、引き返すことなかれ。「西が最高である」からだ。二年の放浪の後、今度は最後で最大の冒険となる。心のなかで偽りの人生を否定する決戦に勝利して、精神の遍歴に終止符をうつのだ。十日間ぶっ通しで、彼は貨物列車に乗り、ヒッチハイクをして、北の雪の大地にやってきた。もはや文明に毒されることもない、と彼は感じ、荒野のなかへ行方をくらますために、大地をひとりで歩いていく。 アレグザンダー・トランプ 

 

 マッカンドレスはバスの窓をふさいでいるベニヤ板に独立宣言を書きこみ、それから『タナイナの植物伝承研究』のうしろの数ページの白紙に地図の空白の日々を記録することにした。

 

 五月二八日、「美味しそうなカモ!」

 六月一日、「リス五匹」

 六月二日、「ヤマアラシ、ライチョウ、リス四匹、灰色の鳥」

 六月三日、「またまた、ヤマアラシ! リス四匹、灰色の鳥二羽、銀色がかった灰色の鳥」

 六月四日、「三匹目のヤマアラシ! リス、灰色の鳥」

 六月九日、「ヘラジカ!」

 

 日記は食べ物で埋め尽くされた。トルストイ的に生きるためには、まず食べなければならなかった。

 

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――人生における唯一のたしかな幸福は他人のために生きることだ、という言葉は正しかった……。

 

 荒野に分け入ってから約三ヵ月後の七月二日、トルストイの『家庭の幸福』を読み終えたマッカンドレスは、ペンを取ってアンダーラインを引き、翌日、バックパックをかついで荒野の出口に向かって歩き始めた。

 足取りは不確かだった。それまで口にした獲物の肉は栄養分が少なく、かなりひどいカロリー不足に陥っていた。

 景色は一変していた。ビーバー池の氷は解けてつながり、一万二千平方メートルの池になっていた。なんとか迂回してたどりついたテクニカ川は、雪解け水で冷たい急流となっていた。

 七月八日、マッカンドレスはバスにもどった。

 

 聡明さとわずかな米で一六週間耐えてきた肉体が悲鳴を上げたのは『ドクトル・ジバゴ』を読み終えてから二日後のことだった。

 

 七月三〇日、「ひどく弱っている。近距離から撃ちそんじる。莢(さや)。立ち上がるにもひどく辛い。腹ぺこだ。危機的な状態」

 つづく一行がさいごの記述となった。

 八月一日、「美しいブルーベリー!」

 

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 マッカンドレスを死に追いこんだのはアメリカホドイモ、植物学者がヘディサルム・アルピヌムと呼ぶ植物の莢だった。

 アメリカホドイモが所属するマメ科の植物の多くは、夏の終わりに、動物に種子を食べられないように莢に――モルヒネ、カフェイン、ニコチン、クラーレ、ストリキニーネ、メスカリンの原料となる――アルカロイドを集める。アルカロイドを大量に摂取すると、食べたものをエネルギーに換えることができなくなり、かならず餓死する。

 マッカンドレスが日記をつづっていた『タナイナの植物伝承研究』には、アメリカホドイモの根は食用になると書かれていたが、莢が食べられるとも、有毒であるとも書かれていなかった。

 

 炎はティーピーの真上まで燃え上がり、さらに炎を伸ばして反対側の森に燃え移った。

 走り、分かれ、広がり、渦を巻き、吹き上がり、炎はいよいよ勢いを増していった。

 

 アメリカホドイモの根を食べ尽くし、空腹に耐えかねて莢に手を伸ばしたマッカンドレスが、母親の手作りの寝袋のなかで息を引き取ったのは、荒野に分け入ってから一一二日目の八月一九日で、ハンターたちに発見されたのはそれから一九日後。友人とぼくがオーロラを見上げている場所から南へ約一〇〇キロ、アラスカの尺度で言えば森のすぐ向こうのできごとだった。

 

* 引用参考文献『荒野へ/ジョン・クラカワー著(集英社)』

 

(アラスカ 燃える闇編、了)

 

 

 

*本連載は月2回配信(第2週&第4週火曜日)予定です。次回もお楽しみに。

 

 

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時見宗和(ときみ むねかず)

作家。1955年、神奈川県生まれ。スキー専門誌『月刊スキージャーナル』の編集長を経て独立。主なテーマは人、スポーツ、日常の横木をほんの少し超える旅。著書に『渡部三郎——見はてぬ夢』『神のシュプール』『ただ、自分のために——荻原健司孤高の軌跡』『オールアウト 1996年度早稲田大学ラグビー蹴球部中竹組』『[増補改訂版]オールアウト 1996年度早稲田大学ラグビー 蹴球部中竹組』『オールアウト 楕円の奇蹟、情熱の軌跡 』『魂の在処(共著・中山雅史)』『日本ラグビー凱歌の先へ(編著・日本ラグビー狂会)』他。執筆活動のかたわら、高校ラグビーの指導に携わる。

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日本ラグビー 凱歌の先へ
編著・日本ラグビー狂会

     

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