三等旅行記

三等旅行記

#31

 一瞬の欧州の旅 八ヶ月 

文・神谷仁

 

巴里への此恋慕の心は何とした事であろう

 

 

 

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 一瞬の欧州の旅 八ヶ月で四足の靴 一瞬の間に仏蘭西の生活が過ぎてしまつた。 家の横の、堰を走る白い流れ河の水を見てゐると、去年のまゝの姿で、音をたてゝキラキラ光つて流れてゐる。 たつた、秋と冬と春を抜かしたゞけなのに、日本へ帰つて来た私は何かまぶしくて眼をあけてゐる事が苦しい。まぶしいのを我慢してパキツと眼をあけてゐると、眼の蓋をつき上げるやうに、涙があふれて来る。 船を上る時は写真をうつされてしまつて、ひどく屈托して、眼を伏せた私の姿が新聞に興をそへてゐたが、全く、どうにもやりきれぬ。 やつぱり、昔のまゝの垢だらけの心で、顔で帰つて来たのだに……。

 波止場に着いたら二十銭残つてゐた。私は、人波に群れた波止場を背にすると、初めてアルゝの女の口笛を吹きながら、白い三和土の道をコツコツ歩いた。

 日本へ着いて第一番に私は、うどんが食べたくて仕方がないので埃つぽい屋台に首をつつ込んで、青い葱の刻んである一杯のうどんを食べて、「おばさん景気はどうなの?」と聞いて見た。 「景気いふたて、いやはやもう、話の外だつせ、うどんも一銭下げましてん」 「一杯いくらなの……戦争だから景気がいゝでせうに……」 「フヽン」 うどん屋の上さんは笑つてゐた。 一杯四銭のうどんは全で火が走るやうに咽喉を通つてしまつた。 垢だらけな心、垢だらけな姿、寒々とした思ひだ。

 東京へ帰る旅費だけ用意が出来て、家族の者にも、友達にも沈黙つて雨の降る東京に着いたのだが、東京はえらさうな街だとも考へる。 本当はなつかしくてなつかしくて仕様がないのだが……。

 八ヶ月の間、私は四足の靴を、巴里で、倫敦で、バルビゾオンではき捨てゝ来てゐる。今はマルセイユ出来の白い海岸靴が足を包むでゐるのだが、こんな安靴でも日本へ洋行して来るのだ。此白い靴に、遠い旅をするからと云つて、別にえらさうな独白もないだらう、ところで靴の奴も、私のやつて来た事を皆知つてるんだし、「えゝあちらでの収穫は」なんぞと云ひ出した事には、それこそクツクツと笑ひ出されてしまう。 あゝ、だが何としても、巴里への此恋慕の心は何とした事であらう、別に大事がられたわけでもない、別にフンダンに金のつかへた訳でもない、へのへのもへじだーー。

 カルコと語る 巴里を去つた日が五月の十二日だ。マロニエの白い花も霧のやうに房々と咲いてゐた。巴里は今女の盛り、花の盛り、ーーその美しい巴里の中で、此小さい東洋女は、安ホテルのラベルでベタベタしたトランク一つさげて、巴里中の駅々を走りまはつてゐたのだ。 ロンドンにも云つた。ニユーハアベンの港も、北方モンモランシイにも、南方のフオンテンブローにも、バルビゾオンにも、皆よかつた。あんまり都会人がゴタゴタ行かないところだけに、思ひ出はまことに青々と涼しい。 巴里で会つた人達の事も、いまではまるでお伽噺のやうに記憶の中に浮かんで来る。 別に恐ろしい人もゐなかつた。只、ジヤン・コクトオの眼だけは、キラキラと情熱的なおそろしい瞳だつた事を思ひ出す。

 芸術をまるで、絹ごし豆腐まやうに考へてゐる人達があるが、コクトオの、スポーツシヤツ一つで自転車に乗つて用足しに行つてゐる姿は、まことにエネルギツシユだ。

 又、フランシス・カルコにも会つた。「私は貴女の作物をあまりよく知らないで訪問したのですが」通訳の青年は、そう正直に私の意を通じてくれたのだが、カルコは、「そんな事を云つて会いに来てくれるのは貴女が初めてだ」と、書棚から沢山の本を抜いて、思ひ出の一章を書いてくれた。又、カルコは自分の顔を描きながら、「いゝ男振りでせう、日本の作者にも、こんな顔をしてゐるのがゐますかね」とぜうだんを云つたりしてゐた。 窓をあけると、一望にして彼の書斎から、セーヌの河を見る事が出来る。呆んやり窓を見てゐると、此逞ましい小説家は、私の肩を叩いて「何度恋愛したか」と聞いた。「私は無数に恋をしたがみんな恋でなかつたやうな気がする、だから恋愛は無経験だが、結婚は三度目ですよ」と云つてやつたら、「お互ひにね」と微笑してゐた。

 「貴方はどんなものを日本で書いてゐる」 で、私は「人生の夕刊」のやうなものを書いてゐると云つたが、どんな意味で通じたのか「人生の夕刊」が書ければ大したものだと云つてくれた。 机の上には電話があり、支那製の大きな灰皿、紅皮の椅子、緑の書棚、蓄音機、一寸上品な株屋さんの自宅と云つた感じもする。 シユミーズ一つの女が、不意に風呂場から覗いて、「失礼!」と私達を驚かせたり、仲々多事多端ではある。 「コレツトはどうか」一流女流作家にも及んで呉れたのだが、「生活のない喰ひつきがたい作者らしいから」と云ふと、カルコはウイウイと何時までも微笑してゐた。

 プウライユの微笑 アンリ・プウライユに会つたのは四月下旬の寒い日だつた。十四区のゴミゴミした、新開地の靴屋さんの三階に、娘のやうに見える上さんと、三つになる女の子と三人で住んでゐた。まるで、本郷時代の詩人萩原恭次郎の家のやうな感じで、子供もお客さんも主人も上さんも一ツ部屋に一緒だ。 貧しいながらも埃まびれな蓄音機が一台置いてあつた。黒表紙の本が壁一面にあふれてゐたし、窓の外には子供の肌着が旗のやうに干してあつた。

 私が訪ねて行つた時は、四五人のプロレタリヤ作家達が、卓子を囲んで立ち上つて何か激しく議論してゐた。勿論此人達は皆コンミユニスト連中だが、その意気、その若さ、その強さ、二時間あまりも私は部屋の隅で子供と遊びながらコニヤツクをなめさせられてゐた。子供はいつも洗濯ばさみをしやぶつてゐる。 小さい灰皿は見る見る吸殻で山になる。議論は果てしもなく続く。時々プウライユは私を見て微笑して見せる。 上さんの見せてくれたアルバムには、徳永直氏の「太陽のない町」の浴衣を着た日本女の表紙絵が貼つてあつた。 とてもいゝ感じの表紙であつた。

 プウライユは、「私の女友達で、もう五十近い人だが、踏切番人をしてゐる女流作家がゐる。会つてみませんか、娘の頃から踏切番人をしてゐて、踏切番から見た汽車だけの小説を何冊も出してゐる人です。出色の一ツに「踏切番の女」と云ふのがあるが、これはベルダンへ運ばれて行く軍用列車が戦地へ行く時、元気ハツラツとした若い男をいつぱい乗せて、中には自分の愛人も混つてゐるのだが、幾月か過ぎて戦地から帰つて来る軍用列車には、見る影もない、不具者の若者ばかりで、偶然窓から見えた恋人の顔には両眼がなかつたと云ふ様な、踏切から見た汽車ばかりの描写をもう二十年も書いてゐて、今なほベルギー境の踏切番なのです」で、私はこの踏切番の女流作家に添書を書いて貰つて、ひどく会ひに行きたい熱情を持つたのだが、つひに金がなく家に燻つてしまつた。会つて来なかつたと云ふ事は何としても口惜しい事である。

 二十年も踏切りから見た世界が書けると云ふ熱情には全く参つてしまつた。机にしがみついてゐる私よ拝跪しろだ。プウライユからは「毎日のパン!」と云ふ著書を貰つた。作品はどこか橋本栄吉氏に似てゐるところがあつた。

 仏蘭西の田舎では、モンモランシイ、バルビゾオン、フオンテンブロウ、ベルダンなぞに行つたが、日本の田舎と同じやうに美しく人情が素直だ。東京だけで日本を論じられないやうに、仏蘭西も巴里だけでは何も分らない。 ベルダンへ握り飯をして行つた思ひ出もあるが……大陸を旅して、田舎の生活が一番私にピツタリしてゐた。

 さて、今巴里では「働いても食へぬ」と云ふ小唄が流行つてゐたが、ベルダンの茫漠たる広野の中の記念碑を見て私は、東洋のベルダン満州の空を回想して何か身に心に沁むものがあつた。

 

  油絵を描いている芙美子。作家として名を成してからも、趣味として油絵は続けていた。

 

 

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< 解説 >

 

 行き帰りの行程を含み、約7カ月のヨーロッパへの旅を終えた芙美子。

 この旅は芸術の都・パリに長年憧れてきた彼女の夢を叶える旅でもあった。 巴里での生活は、安アパートに住みながら、自炊をし、随筆や旅の記録をせっせと書いては日本に送る。その原稿料で、舞台を鑑賞したり、学校に通ったり、様々な支払いや家族への仕送りをするという自転車操業のような生活ではあった。

 途中、過労や栄養不足によって視力も衰えてしまったりもした。 しかし、この旅は彼女にとって多くのものをもたらした。 『放浪記』がヒットした当時は、世間では「行商人の娘」や「カフェの女給」などを押し出した「貧乏」を売り物にする素人小説家・という批判も少なくなかったという。 旅に出る前は、芙美子自身もそんな場所から、身も心も抜け出せない自分に忸怩たる思いがあっただろう。 しかし、帰国後は赤裸々な自分の体験を、自分を主人公にして描いていたような『放浪記』から、自分の体験が根底にありつつも、他人の人生を俯瞰的に描いたような小説も多数発表し、作風も進化した。

 さらに芙美子は、この旅で日本語の美しさにも気づいたとも語っており作家として大きく成長したのは間違いない。 そして、彼女は、パリでいくつかの恋を体験し、その恋に破れた。 この人生最後とも言える旅先での恋も、これ以後の創作活動に大きな影響を与えたのはいうまでもない。

 帰国後、芙美子は、わき上がるような創作意欲をぶつけるように、多くの文章を発表し、日本を代表する女性作家へと駆け上っていったのはご存じの通りだ。

 まさにこの旅は芙美子が、本当の・作家・になるための旅であり、様々なものからの「卒業旅行」でもあったのだ。

 


 

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96写真差替え分

*巴里から戻ると夫・緑苑のもとへ帰っていき、生涯を共にした
 

 

トランク

*芙美子が使用していたトランク。
 

 絵を描く

 

*油絵を描いている芙美子。作家として名を上げてからも趣味として描き続けていた。

 

 自画像

 

*芙美子が描いた自画像。色遣いが巴里の雰囲気を思わせる。
 

 

 

      *『三等旅行記』は今回が最終回となります。ご愛読頂きまして、ありがとうございました!!       

 

                     

 

 


 

                                                                                                

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林 芙美子

1903年、福岡県門司市生まれ。女学校卒業後、上京。事務員、女工、カフェーの女給など様々な職業を転々としつつ作家を志す。1930年、市井に生きる若い女性の生活を綴った『放浪記』を出版。一躍ベストセラー作家に。鮮烈な筆致で男女の機微を描いた作品は多くの人々に愛された。1957年に死去。代表作は他に『晩菊』、『浮雲』など。

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