三等旅行記

三等旅行記

#30

  日本へ向けてアデイユ

文・神谷仁

 

「船の中は、すべてがヱトランゼ

 

 

 

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<三等船室雑話 >

 

マルセイユ出帆の日、牡蛎を食べて赤葡萄酒を飲んで、まづ私は最後の思ひ出を心おきなく此港に残したのだが、いざ日本へ向けてアデイユとなると、瞼の裏が妙に熱くなつて、船が出ると云ふまぎわまで、マルセイユの街をウロウロとひとりで遊んで歩いてしまつた。–船へ乗つたのが十分前盛んに出帆の銅鑼が鳴つてゐる。

  さて、これから三十四日間の航海を続けるのだが、考へてみたゞけでも頭の痛くなる話だ。「どう暮したものであらう」小さい船窓一ツの浅い重箱のやうな寝床へ転がつたまゝ、私は何時までも、気持ちが重くなつてゐた。

 だが、何時までも気持ちを重くしてゐたところで仕方がない。穴蔵のやうな三等室に荷物をほうり出したまゝB甲板に出て見る。–空は真青、海も亦青い。波止場はまるでレヴイユの街だ。マルセイユよさよなら、仏蘭西よさらなら、私の乗つた船は郵船の榛名丸、マルセイユから横濱まで三十磅で運んでくれるのだ。

 私の部屋には、Aさんと云ふ五十二歳の生花の婦人と、ハープをやるSさんと云ふお嬢さんと、女中だと云ふ西倫の娘とが同室であつた。暗い三等室も女四人では仲々明るいもので、終日歌ばかりうたつて暮らした。

 二日目、そろそろ船の食事が腹に重くなつて来る。–波静かにして風景また良くなるで瀬戸内海の旅のやうである。夜は隣室の三等室の客人に招ねかれて、マルセイユ仕入れの牡蛎と酢章魚の御馳走になる。此部屋の住人は、大学の先生あり、音楽家あり、弁護士ありで、仲々賑やかであつた。 「ドイツの女は素敵ですよ」 「ドイツのビールは美味しいですよ」 等々、大学の先生も二人の弁護士も長い間ドイツに居た人だけに、ドイツ礼賛の声が高い。

 ナポリに着いたのが、マルセイユを出て三日目、私はすぐ上陸して、明けたばかりのナポリの街をポクポク歩いた。巴里なんぞの女とはまた違つた、南国的な美しい女が窓から覗いてゐる。サンタルチアの、イタリー娘の肌は、いまだに私の頭に焼きついてゐる。

 同船の人達も金のある人は自動車でボンベイに行くのだが、私はボンベイの歴史の匂ひをかぐより、生きてゐるナポリの街の方に、多くの興味があつた。 ナポリの街は、まるで雛壇のやうに山へ延びてゐて、坂を登る程、景色が美しく拓けて行く。此ナポリには、お染久松と云ふ茶屋があると云ふ事を聞いたので、私は、そのサマリテーヌと云ふ丘を探して歩いた。白いテラスから、ヴヱスビオの火の山が一望にして、茶店から見える。まことに、お染久松とは涼しく美しい眺めの茶屋であつた。 見下す無数にある窓々からは、神さん連中が籠の中へ銭をつるしては買ひ物だ。–街の魚屋には、鰯、烏賊、鯖、そんなのが、まるで日本風に並んでゐる。絵のやうだ。だが、絵のやうだとは云つても、ナポリの街は西洋の支那と云つた感じで、ムツソリニイの思想と反対に、全く不潔で汚なくて乞食の多い街であつた。こゝでは烏賊の天婦羅と、名物のマカロニ料理を食べてみた。 即興詩人で有名なカプリ島にも行つてみたかつたのだが、船が泊らないので、只サンタルチアの港から、カプリ行きの小船を眺めただけに止まつてしまつた。

 ナポリを出発する四日目がポートサイドだが、妙にヨーロツパへの思ひ出が残つて、女達もつゝましく裁縫となんぞして日を暮らす。 此頃、夜々の月の出は、大変大きく盆のやうであつた。 ポートサイドでは、エジプト煙草にオランジユを買つた。家並みは台湾風な停子脚が出つぱつてゐて、街に深い陽陰をつくつてゐた。 紅海を航する事三日あまり、海の色は濃くむらさきがゝつて、夕方などデツキに出て眺めてゐると、空の関係なのだらうか、ひどく紅がゝつてさへ見えた。

 暑くて退屈になつてくると、隣室の××大学の政治学の先生は、三等ばかりですきやき会をやらうじやありませんかと、御苦労な事にも一人一人賛否をもとめて歩いてゐた。 あゝだが、すきやきはさておき、何にしても死ぬやうな暑さだ。三等で此暑さだから、機械部の火夫や石炭夫や、料理人達はどんなにか暑苦しい事だらう。只、私達は三等客で、気軽な事に、一等客のやうに一々礼を正して食堂へ出る必要はないのだ。 三等の食堂と云へば、田舎の床屋さんにだつて今はないだらう。古風な板のまゝの細いバンコの腰かけ、卓子は手術台のやうにレザアの布がかけてあつて、時計はマルセイユを出る時から、七時半を指していようと云ふ品物だから、私のやうに時計なしの旅行者には、随分、此七時半には弱はらされたものであつた。 食事の不平はもう毎日の事であつたが、船員達は皆長閑なひとばかりで、帰航のせいか、元気がよかつた。日暦をめくるのが一番の楽しみだと云ふ、可憐な連中ばかりであつた。

 三等ボーイは二人きりだが、ボーイと云へばチツプの話だが、私はナポリを出る時部屋と食堂と風呂の此三人に、一磅さきに渡した。同じものなら、半分でも先きにやつた方が、ボーイ達だつてうれしいであらう。ボーイを使ふだけ使つといて、上陸まぎわに少しやつて誤摩化した人達もあつたが、何だか厭な気持ちだ。

 インド洋に這入つた二日めには、たうとう恐れてゐた季節風に会つた。頭の上の小さい円い船窓から見える海は、まるで水族館のやうであつた。部屋の四人の女達は、死んだやうに寝床にもぐりこんでしまつて、只、西倫の娘だけは、元気ではねまはつてゐた。 船に強い私も、何としても力みやうがなく、A女史に教はつた通り、梅干を臍の上に乗つけてみたりした。此時こそは、シベリヤの雪の旅行をつくづくなつかしく憶ひ出した。で、船の中で何か書きたいなんぞと計画してゐた事も吹き飛んでしまつて、話の外の無為な毎日であつた。

 インド洋の十日の海上生活は、全く、厭な思ひ出だ。–只、無電で、陸のニユースを知らせてくるのが楽しみで、二等の掲示板をよく読みに行つたものだ。犬養さんが殺されたり、チヤツプリンが箱根をドライブしたなんぞも、此インド洋上で知つたのであつた。 長い事日本を離れてゐる人達が、久し振りに日本へ帰へらうと云ふのに、色んな事件が突発すると、皆、此物置のやうな三等食堂に集まつて、日本についてのオクソク談を始めるのである。 上陸してからの生活の事、仕事の事、家庭の事、何だかそんな事が深々と心に沁みて、呆んやり色んな事を考へて来ると、暑さに、荒波に、へとへとになつてゐる時なので、後部甲板なんかを歩いてゐると、いつそ飛びこんでしまひたくなつてくるのである。–一種の神経衰弱になつてしまうのであらうが、運動不足になるのであらう。

 ×日 いよいよ明日コロンボなり、陸を踏むと云ふ事は楽しい。 朝、セロをやつてゐる音楽家の人にレコードを借りてかける。暑さは落ちるが、気持ちのいゝ旅ではない。一束の花咲ける夢、海の恐ろしさ、風雨一切空し、エジプトの風にも吹かれる。ああ歴史とはかくも美しくはかなきものか、明日は果実を買はゞや–無為。

 コロンボへ入港する前日の日記だが、よつぽど、暑さに弱つてゐたものと見える。

 コロンボは美しい港だ。 晴天で、空も海も南国色だ。ゴーガンの描く、肉厚き花びらの街、緑がまるで吹きあげる噴水のやうに繁つてゐるし、鳥が平気で街の上を低く啄ばんで飛んでゐる。男も女も裾長い着物を着て、人種は実に眉目秀麗であつた。だが、街は、植民地臭が多分にあつて、どこか英国風な官僚気分があつた。眉の上のかゆいやうなコロンボだ。 木になつたのまゝの小粒のバナゝを一山貰つて船に帰へる。こゝでは蓮華寺のやうな寺を見たのだが、植民地風はこんなところにも吹き荒んで、仏の背にし給ふ壁には、ペンキ絵で、白色婦人の天女が舞つてゐる安つぽい風景が描いてあつた。強いバツクの色には全くヘキエキしてしまつた。一寸興覚める思ひだ。街は紅色をしたネムの花盛り、カンナの花なぞは四季をぶつとうしで咲いてゐると云ふ事である。 此港からは、オリンピツク行きのインドのホツケー選手一行が乗つて来た。空色のユニホーが大変美しい。

 毎晩、B甲板は、三等客で賑やかであつた。 働きを済ませた船員達は、浴衣姿で雑談をしてゐる。たまに涼風でも吹いて月のいゝ夜になると、「酒は涙か溜息か、心の憂さの捨てどころ」こんなレコードを誰かかけてゐる。すると、十年も欧州にゐた人なぞは、呆心したやうに、蓄音機にしがみついて聞き惚れのだ。 「日本も仲々良いですのウ……」 何がいゝのか判らないが、此人は酒は涙か溜息かのレコードを聞くと、まるで子供のやうに手を叩いて感心してゐた。

 故郷! 故郷! 船の中は、すべてがヱトランゼだ。長い間、優しい故郷の風物から離れてゐたせいか、誰も彼も、「もう何日で故郷だ故郷だ」と、話しあつては、船足の速度を心に教へてゐるのであつた。 ●解説 いよいよ芙美子は、約半年のヨーロッパ滞在を終え日本に帰国することとなった。 フランスからの帰路は、定期航路を持つ日本郵船の榛名丸に乗船しての船旅だった。 以下は、『三等旅行記』に収録された帰路の勘定書だ。

 

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マルセイユより横濱までの勘定書

 

五月十三日  榛名丸にて–マルセイユ出航。

 三十パウンド–マルセイユより横濱までの三等船賃。(約三百五十円)

 四十五法–仏蘭西出国税。(約五円)

 三十法–カンネビール八番街の郵船までと波止場までの自動車賃。(約四円)

 七法–酢牡蛎に赤葡萄酒を波止場の料理店で中食。(約九十銭)

 三十法–部屋靴一足。(約五円)

 三十五法–スカート二着。(約五円七八十銭)

 二法–エハガキ。(約三十銭)

 六十銭–フイルム一本船にて。

五月十五日 ナポリ午前七時半着。

 二十五法–ナポリにて、烏賊の天婦羅、マカロニ、カフヱなぞ。(約三円)

 三法–エハガキ二組。(約四十銭)

 二法–ゆすら梅のやうな木の実。(約二十五銭)

 三法–マセドニアと云ふ煙草。(約四十銭)

五月十九日 ポートサイド午前六時半頃着。

 四法–コロンボ蜜柑五ツ。(約五十銭)

 四法–枕のやうなメロン一ツ。(約五十五銭)

 一パウンド–船の三等ボーイにチツプを半分だけ先払ひする。食堂係りと、掃除係りと、風呂番へ。(約二十円)

 八十銭–船の床屋にて髪を剪る。

 十五銭–浴衣洗濯料。

 八十銭–ビール二本。

 十法–コロンボバナゝ一枝。(約一円三十銭)

 一法–蜜柑一ツ。(約十三銭)

 十法–軽木細工の袋物三ツ。(約一円三十銭)

 十五法–煙草色々四箱。(約一円九十銭)

 六法–自動車賃。(約九十銭) 一法–電車賃。(約十三銭)

 八十銭–ビール二本。

 四十銭–レモナード二杯。

六月四日 シンガポール朝六時半着。

 三十銭–俥賃。

 四十銭–エハガキ。

 八十銭–ビール二本。

 四十銭–ビール一本。

六月九日 香港朝六時着。こゝでは一パウンドが、約十二円の相場だつた。日々に相場が変つて行くので、相当損をする時がある。

 八十銭–山頂まで自動車一人分。(四人乗り)

 一円八十銭–支那煙草五箱。

 八十銭–アイスクリーム四人分御馳走する。

 十銭–渡しのサンパン代。

 一円二十銭–陶々仙にて支那飯一人前也。八人で卓をかこみ、支那金で十ダラ三十五仙。

 十五銭–浴衣洗濯料。

 四十銭–ビール一本。

 二十銭–レモナード一杯。

六月十二日 上海朝八時入港。

 一円三十銭–自動車にて四川路の内山書店及び魯迅氏のところへ。

六月十五日 神戸入港。

二十円–ボーイにチツプ三人分。

八十銭–ビール二本。

 

計–四百二十六円あまりかゝりました。他に切手代が二円程あつたが、その港々の小さい金で払つたので忘れてしまひました。

 

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< 解説 >

昭和7年の5月13日にマルセイユを発ち、芙美子が神戸に到着したのは6月15日約1カ月の船旅であった。

芙美子が乗船したのは三等室。しかし、榛名丸は当時としてはそれなりの格式を持った船で、甲板などにはプールもあり、乗組員や料理なども一流。乗船客も富裕層であった。芙美子は船旅の途中で、その他の乗船客の日本人と交流するなど、行きのシベリア鉄道とはまた違う旅を楽しんだようだ。

 


 

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巴里の送別会

 

芙美子が巴里を出るときの送別会

 

 

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*当時、マルセイユの港にあった牡蠣屋
 

 

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*当時、欧州-日本航路で使用されていた芙美子が乗船した榛名丸と同型の客船・箱根丸  
 

 

 

 

 

 

 
                         

                                                         

      *次回は最終回となります。更新は3月19日です。お楽しみに。           

 

                     

 

 


 

                                                                                                 

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林 芙美子

1903年、福岡県門司市生まれ。女学校卒業後、上京。事務員、女工、カフェーの女給など様々な職業を転々としつつ作家を志す。1930年、市井に生きる若い女性の生活を綴った『放浪記』を出版。一躍ベストセラー作家に。鮮烈な筆致で男女の機微を描いた作品は多くの人々に愛された。1957年に死去。代表作は他に『晩菊』、『浮雲』など。

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