越えて国境、迷ってアジア

越えて国境、迷ってアジア

#29

パスポートに押されたハンコたちへの異常な愛情

文と写真・室橋裕和

 

 10年間のリミットを迎えて、更新しなくてはならなくなった旅の道連れパスポート。ページを埋め尽くすビザや出入国のスタンプには、ひとつひとつマニアならではのこだわりと思い出とが詰まっているのである。

 

 

パスポートを見ながら旅を思い出す

 とうとうパスポートの寿命が尽きてしまった。この10月で、10年間の期限が切れてしまうのだ。「もう数か月、残っているではないか」という者はシロウトである。僕のメインフィールドである東南アジアをはじめ、多くの国では入国の際に「パスポートの残存有効期間が6か月以上あること」を条件としている。僕のパスポートはもう、公的な渡航書としての効力を、すでにほとんど失ってしまっているのだ。
 加えて物理的な限界も近かった。10年の間に訪れたさまざまな国のビザや出入国スタンプによって、増補分も含めたほぼすべてのページ(いわゆる査証欄)が埋まっていた。
 増補というのは、パスポートのページが足りなくなってきた場合、これを増やす手続きのこと。海外出張のやたらに多いビジネスマン、海外在住で日本や周辺国とひんぱんに行き来している人、そして僕のような国境マニアなど、特殊な人間だけがこの儀式を選ぶ。
 本体は50ページだが、後ろのほうにしっかりと縫いつけられた増補分は40ページだ。これで心おきなく出入国ができるが、増補は1冊のパスポートにつき1度だけ許可された、いわば最後の手段といえる。

 

追加

全90ページのパスポートはビザのシールなどでふくれあがり、厚さ1センチ超、iPhone5Sの倍近い

 

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しっかりと糸で編みこまれたパスポート増補ページの最初にはこんな文言が。以下はS(supplement)-1、S-2……S-40までページが続く

 

 日本で増補するなら各都道府県のパスポートセンターで手続きするが、海外では各国にある大使館・領事館となる。僕が増補をしたのはバンコクの日本大使館だった。当時、僕はバンコクで日本語の情報誌をつくる編集者をしていた。タイには働いている人や出張者、旅行者など、10万人前後の日本人が常に滞在しているといわれる。だから日本語の媒体も成り立ってしまうのである。
 その取材で周辺国に出かける機会が多く、しぜんとハンコは増えていった。ことによく出かけたカンボジアは、国境や空港でビザを取得してから入国することになるのだが、これがパスポートを1ページまるまる使うのだ。加えて出入国スタンプもある。その鮮やかなグリーンのビザは、はじめてゲットしたときは嬉しかったものだが、こうもパスポートのなかに増えてくると、うっとうしくなってくる。ページの消費も激しい。お前ばかりでしゃばるんじゃない、ほかの愛らしいハンコやビザが埋もれてしまうではないか……。
 タイ就労用のノンイミグラント・ビザも、やはりほぼ1ページのデカさであった。ビザ更新ともなると、これに労働許可証を持っているという証明のハンコも押される。また、ノンイミグラント・ビザを所有しつつタイ国外に出て、また入ってくるために、リエントリー・パーミットというのも必要で、これまた半ページ。これではどんどんページが埋まってしまう……なんて思いながらも、カラフルなモザイクのごとく彩られたパスポートはマニアの勲章、誇りでもある。僕はたびたびパスポートをめくりながら酒を飲み、そのハンコひとつひとつを愛で、国境の思い出をたどることを趣味としている。

 

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カンボジアのビザは数えてみたら13あった。意外に少なかったな、とちょっと悔しい気分になる

 

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左がタイのノンイミグラント・ビザ。右上はパスポートを切り替えたときにビザも移行したという証明で、右下がリエントリー・パーミット

 

 そうして今夜もパスポート酒を楽しんでいると、やはりハンコにもお国柄が出ていると実感する。
 日本の出入国管理官諸氏は、おしなべて律儀である。窓口にはいかにも冷然かつ神経質そうな顔が並んでいるが、そのぶん的確に押印してくれる。数多のハンコで埋まった我がパスポートにひるむことなく素早く繰っていき、わずかな空きスペースを見つけて、割り込むように押してくれるのだ。ページの有効活用ができるというものである。ハンコの主要素である、出入国地点、日付などがしっかりと確認できるだけの朱肉の密度・押印の圧力など見事なもので、法務省は彼らにハンコ研修でもしているのではないかと感じ入る。
 同じように気持ちの良いキッチリ感があるのは、ベトナムとラオスであろうか。誇り高き社会主義国の主張か、真紅の出入国スタンプが鮮やかな両国は、パスポートの余白をうまく利用し、規則正しい押し方をしてくれるのだ。両国を行き来して旅をすれば、長方形のスタンプが交互に上から順番に押されていき、旅を終えるころには1ページを埋める美しいシンメトリーが完成する。
 いつだったか、ラオスに抜けるべくベトナムのラオバオ国境に立ち寄ったときのことだ。ベトナムのイミグレ職員は、僕の提出した出国カードには目もくれず、職人の顔つきでスタンプを丹念に確認しているのであった。慎重に朱肉に押しつける。そしてパスポートの狙い済ました場所へ、的確に打ち込むのだ。仕上げに日付ハンコの目盛りをキリキリと合わせ、出国スタンプの上に優しく添える。匠であった。できるな……。
 感心したが、驚いたのはその後だった。係官氏は傍らからティッシュを抜き取ると、スタンプを押したページにそっと挟み、手渡してくれたのだ。こうすればスタンプの対抗ページが汚れない。なんという気配りであろうか。感激して握手を求めようとしたが、係官氏はニコリともせず次のパスポートに取りかかっているのであった。
 対してスタンプ愛に欠けるのはインドであろう。まっさらなページのど真ん中に平気で押すやつ。唐突感があり、美しくないではないか。ほかの国のスタンプで埋まっているページに、重ねて押すやつ。鑑賞するときに見づらいし、粗雑で荒れた印象があり、やはり美しくない。他国のハンコが犯されたような気すらする。
 コルカタの空港でアライバルビザを取ったときは、なんとビザのハンコを上下さかさまに押されて、思わず激怒したことがある。「ノープロブレム、旅行に支障はない」と係官は興味なさげにパスポートを投げ返してきたが、マニアとしては非常にプロブレムなのである。

 

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タイ(右)とラオス(左)のコラボレーション。出入国スタンプには国境地点が明記されており、マニア心をくすぐる。これ欲しさにレアな国境を目指してしまう

 

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あわれ逆さに押されたインドビザ。しかも一部かすんでおり、反対に入国スタンプはにじんでいる。さらに栄えある増補ページのトップだったから、僕は激怒した

 

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中央がシンガポールだが、こういうのは非常に許しがたい。家の中に土足で踏み込まれたような屈辱を感じる

 

 見れば見るほど、ハンコたちは個性的で楽しい。
 ほとんどが英語表記であるのに対して、日本や中国、台湾は漢字があしらわれていて目を引く。とりわけ中国は、堂々たる毛筆調で「中国辺防検査」と刻印されており、国の威信を感じさせる。そういえば中国では筆談をする機会が多いが、誰もが美しい漢字を書いたと思い出す。
 ブルネイのものは翼や三日月、人の手などで構成された国章があしらわれていて、なかなかいかしている。そのブルネイにはマレーシアのサバ州から入ったのだが、マレーシア入国とは別にサバ州入域ハンコというややレアものも押されており、軽く優越感を覚える。
 ミャンマーのビザはすべてタイで取っているが、2013年はシールだったものが2014年にはハンコに変わっており、なにがあったのだろうと夢想する。インドネシアのアライバルビザのシールは、いまとなってはお宝かもしれない。日本人は2015年からビザ不要になったからだ。
 10年間の旅の軌跡と時代の移り変わりが刻まれた我がパスポートをいたわり、僕は心から、おつかれさま、と声をかけた。
 寂しい気もするが、更新にあたって嬉しいのは、二日酔いで腫れぼったい顔と寝癖のある頭でいかにも不審者な顔写真のぺージを、新しくできるということだ。

 

 

 

*国境の場所は、こちらの地図をご参照ください。→「越えて国境、迷ってアジア」

 

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*本連載は月2回(第2週&第4週水曜日)配信予定です。次回もお楽しみに!

 

 

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室橋裕和(むろはし ひろかず)

週刊誌記者を経てタイ・バンコクに10年在住。現地発の日本語雑誌『Gダイアリー』『アジアの雑誌』デスクを担当、アジア諸国を取材する日々を過ごす。現在は拠点を東京に戻し、アジア専門のライター・編集者として活動中。改訂を重ねて刊行を続けている究極の個人旅行ガイド『バックパッカーズ読本』にはシリーズ第一弾から参加。

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