三等旅行記

三等旅行記

#28

 倫敦にうつゝて来ました

文・神谷仁

 

倫敦は毎日深い霧です

 

 

 

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<ひとり旅の記 >



 巴里を引きあげて、倫敦にうつゝて来ました。倫敦は静かな街です。王様のゐる街なのでせう。ーーそれよりも、仏蘭西のダンケルクの港町から夜中に船出した、夜の海峡風景は素的でした。
 倫敦では仕事がフンダンに出来そうな気がします。巴里では散々な気持でした。だが、オペラや、シネマや、音楽会には行けるだけ行つて楽しみました。
 此間フランシス・カルコのラ・リユと云ふ本を送りましたが、読みましたか。貴女は長い間仏蘭西語をやつてゐらつしやつたが、此はLARUEたしかに面白い本です。作者はいま売出しの中年の人ですが、技巧は仲々うまいもので字引にないやうなプロレタリヤの方言が沢山つかつてあります。



 ところが、倫敦の事ですが、私の宿はケンシントンと云ふところで、大公園のハイドパークが近いのです。でもケンシントン区でも、一番肩の張らない勤人の多い町で、ホウランド、ロード町の三階に巣食ひました。こゝの女主人はまだミスなのですが、年はもう五十位でゞもあるでせうか。妹らしい四十位の婦人も居ますが、二人とも猫みたいにむつゝり屋です。
 一週間二パウンド半(約二十五円)朝食、昼食、夕食、それに、夕方四時頃には日本茶をつけてくれます。でも一週間約二十五円あまりでは、私の身分としてはやりきれないので、一週間過ぎたら部屋を越すつもりです。此部屋は古風な大きな部屋で、生れて初めて、フカフカした夢のやうな寝台のあることを知りました。ーー倫敦がしのぎにくかつたら、船でナポリか、ジブラルタルか、モロツコへ行きたいと思つてゐますが、何にしても金が欲しい。
 全く、此様な甘い言葉なんぞ嫌なんだが、当分貴女にもお会い出来ないでせう。
 荷物は何も彼も送り返へして、身軽にはなりました。何しろ着のみ着のまゝだから、それでも、此女は東洋人です。小さいスーツケースの中には、巴里の粕を捨てかねて、皿を一枚、すきやき鍋、フオクに匙、飯釜、茶碗、こんなものを入れてゐるのです。だからまだ本性はあるのだ。元気ですよ。何くそ! と力んでもゐますが、たまには泪がいつぱいにもなる。ーーところで私は、死ねる覚悟も出来たのですが、此手紙はいつたい何日頃着くのでせう。長い時間に晒されて、日本へはるばる着くのだから、いゝかげん頼りない話ですね。

 母にも会ひたいが、それも遠い話だ。これから何日間、私の体が生きてゐるか、兎に角もつと洋燈をあかるくしませう。そうして大変心にかなつた、小説を一篇かきあげる積りです。
 二日目なのですが、倫敦は落ちつけるやうな気がします。巴里のやうに植民地的ではない。植民地と云へば、巴里の茶店で、ある紳士が、「貴女は印度支那のお嬢さんですか、此頃の植民地はとうですマドマゼール」と、私に話しかけて来た事がありました。
 どうも、此シルクハツトにタキシードつてな男は大禁物、それにモノクルを掛けて見下したところは、どう見ても癪にさはる。
「ノンノン、ムツシユウ! 私はジヤポネヱだが、今に仏蘭西も日本の植民地になるでせう。ネスバ」そう云つてやつたんです。但し次のキヤフヱのアンコールしないで、私は出てしまひましたよ、皆が口を開けて見てゐるのでーー。
 巴里も、もう海の向ふに過ぎてしまつた。倫敦で一番最後の日が来たら、長い日記でも送りませう。ところで距離がこんなに遠くなると、人間の記憶心と言ふ奴も、一寸当にならなくなります。皆、ボヤボヤとなりそうです。此気持ちなんですよ。外国に居る奴を馬鹿にしてしまうのは、厭に陽が当つた蜜柑のやうに、日本はサンゼンとして見えるんですが、その島の上の人間の顔が皆、ボヤボヤとしてしまう。
 外国なんて、東洋のブツダに言はしむればさあ何と言ふでせうか、ブツダは笑つて眼をとじるでありませう。
 ところで後四五日もすれば、いよいよ一文なしだ。だが金がないからつて死んでしまふやうな、ケチな事はしない積りです。
 倫敦は毎日深い霧です。

 


 本当はいゝ仕事をしたい事です。一月二十八日の日記をおめにかけませう。
 ーーすつかり慢性の孤独病だ。外に出るのが嫌ひ、人に会ふのが嫌ひ、ーーだが此宿の食事ときたらどうだらう。朝も昼も夜も、卵ばかりだ。まるで私の胃は卵を入れる袋だ。たまに十三時の時計も打つものだと、東洋の文豪佐藤春夫さんが言つてゐる。
 脂肪で押さうか力で抜かうかなんぞ、山師の考へるやうな事なんぞ考へぬがよい。いよいよ二月もまじかだ。夕飯前霧の中を、金魚のやうにフカフカ歩いてポストへ行く。あまり霧が深いので、集配人が此ポストを忘れて行きはしないだらうか、とても寒い。誰かが突当つて行つた。「アイアムソーリイ」ーー元気で生きたいな。

 全くいゝ仕事がしたい。急がしい旅路にありながら、あれもこれも馳りまはり、国の暮らしむきから私の事まで、こんなにひそひそして来ると、ぐちの一口も言ひたくなります。私が一番恐れてゐるのは、雑文に荒む事だ。切角小説を書きたいと思つた気持ちも、すぐ中腰になつて、目先きの事でアラえつさつさなのですからね。
 今日は少しばかり仕事にかゝりました。
 それは「日月の跡」と云つた風な題です。でもまだたつた二三行です。でも糸口が出来た事はうれしい。
「夕方の賑やかな甃路で、私は十五銭もする桃の枝を見てゐた。此街の名を何と呼ぶのか、こつちへ来ると、山のやうに日本が書きたい。」
 此手紙と一緒にボンナアルの画集送ります。倫敦の古本屋で、六十銭あまりで買ひました。絵はいゝ。絵だつていゝ。音楽だつていゝ。
 街の看板の字はよく読めます。英語は女学生みたいで大変よろし、だが発音は大変むづかしくて、あなどれません。
 私はこゝへ来て、又チエホフとバルダツクを読了しました。アンドレ・ヂツトも読みたいのですが、まだとりつきが悪い。勿論日本訳ですが日本で読む気持ちと少し違つて来ます。訳した人が日本の風景の様に描写してゐるところが、とても多い事を発見しました。
 あゝ私も今年はがんばりたい。いゝ仕事の出来る時ではあるのだ。日本は、日本の此頃はどうでせうか。変なイヅムが流行ですか、日本の流行のうつり変りは、全く笹の葉の風に吹かれる感じーー。

 


 黒い龍と云ふ名を、度々倫敦の新聞で見るんですが、あれはいつたい何なんですか。倫敦の平和論者の一部には大ヤバン国日本とやつゝけてゐますが、日支戦争の折から井上さんの暗殺は、益々日本を大ヤバン国にしたらしい。これでは××も××から革命が起るんですかね。
 厭なこつた。伊太利人みたいに理屈が通らないとなると、私も少し剣術を習つて帰へらなければならない。
 十三日の日曜日には、トラフアルガル広場で、支那コンミタンのデモンストレーシヨンがあります。勿論日支問題の事を演説するのでせう。聞きに行くつもり。ーー藤森成吉氏夫妻にあひました。アメリカへ渡られると云ふ事でしたが、一寸ばかりうらやましかつた。あゝいふ人達は金があるのだらうな、大変真面目な人であつた。日本へ沢山仕事を持つて帰られるといい。
 大陸へ来て感じた事は流行がにぶい事です。文学においてはなほさら、日本のやうに、あゝせつかちに、何々イヅムはおこらない。それだけに芸術家達も貧しいながらも元気がいつぱいだ。

 今は朝です。
 とても霧が深い。こちらの霧には色がついてるやうだ。ゆつくりした速度で、二階建の赤い乗合自動車が走つてゐる。
 煙草は止めてゐます。勿論酒なぞはとつくの昔に忘れてしまひました。熱い風呂にも這入りたい。三週間も湯に這入らない事があります。何しろ七八十銭もするのだから、かう円がさがつては、私のやうに自力で来てゐる者には手も足も出ない。
 母へは元気でゐるらしいと、お次手の時手紙を出して欲しい。井伏さん元気だらうか、倫敦の日本宿に藤森さんを訪ねて行つた時、応接室に古い文藝春秋がありました。その中に、シグレ島何とかいふ井伏さんの小説が載つてゐた。なつかしかつた。ハガキでも出してよろしく云つて下さい。
 私もいゝ仕事をしよう。きつと元気で生きてゐます。心配せぬやうに。手紙も私の返事であつたらいりません。四十日も喰ひ違つた返事よりも、貴女の近況でも知らせてくれた方がいい。ーー実際、これから、ジブラルタルにでも行かうなんぞと、鞄を整理してゐる時に、「巴里安着何よりです。自炊生活は面白いでせう」とか、全く気の抜けた話ですよ。とつくの昔に巴里を去つて、倫敦にゐて、又はジブラルタルへでも行かうかなんぞ考へてゐるのですからね。
 地図を見てゐる事はユカイです。人間が大きくなりますよ。陽が少しあたつて来ました。窓の外を、箱車を引いて、山高帽を被つた、村風子然としたよぼよぼの屑屋が通つてゐる。
「ハロー・ムツシユウ!」
 何を売ると思ひます? 手ぶらで三階からか馳け降りると、私は金側の腕時計を脱して談判してしまつた。
 箱車の中には、破れたマントウやら足の折れた椅子、糸のないヴイオロン、赤い女の雨靴、そんなものがはいつてゐます。
「俺には、こんな金属物は判らないでね。」
「お爺さん、エトランゼだから買つて頂戴よ。君だつて何も食べないで体が冷たくなつて行つたらどうします。」
「全くさね、あの気持と来たら地獄と隣りあはせだ。パスポートを見せなさい。五両で買つとこう。」
 で、テンシリングで腕時計の取引きが済むと、初めて大きな声で、私はおけさの一節を怒鳴りました。
  あゝ今宵ひとよは緞子の枕……

 


 全く世界の至るところ、屑屋君は行きとゞいてゐます。彼達の呼び声だつて、ひどく日本の屑屋さんに似てゐます。
 此テンシリングの金のある間、貴女の友達にいゝたよりを書かう。手紙を書いてゐる時だけ、はつきりと皆の顔を思ひます。意気消沈して、何も彼にも希望がもてなくなると、私は部屋の中をうろうろと歩いて色々な家具に手を触れてみます。
 飴色をした食器台は、一世紀も前のものだと、女主人は云つてゐましたが、指をあてるとハツカ水に手を浸したやうに冷たくて、そのくせ、隅々には埃が厚くたまつてゐます。敷いてあるタツピイの模様は、代々の宿泊人に蹂躙されて、花なのか、動物なのか解りません。会議にでも使ふやうな円卓、汚れた大理石のストーヴ、その上には汚点だらけな壁いつぱいに鏡がありますが、ストーヴ台が高いので、やつと私の肩から上が写ります。
 私は此鏡になるべく眼をむけないやうにかまえてゐるのですが、時々何気なく驚かされるのですよ。夜なんぞ爐の火にあたつて、何とも仕様がなくなりむつくと立ち上ると、大理石のストーヴの上に円い女の顔が乗つかつてゐる。
 薄呆んやりした三白眼だ。ねえ、こいつが私の首なんだ。驚いて身を引くと、台の上の首も向ふへ転落してしまう。
 夜が段々おそろしくなつて来ます。私は夜になると自分の影にさへ声をたてる。部屋の隅には、高音譜の黒い鍵が歯抜けのやうになつてゐる古いピヤノもあります。これには格子のやうに蝋燭だてがいつぱいつゝたつてゐて、年代を経たらしく、緑青が吹いてゐる。ところで、私は此ピヤノを見る度に、井戸車のまはるやうな音と、無数の手を連想して来ます。連想して来ると、私は部屋中の窓を明けて此音を出す事に努力します。壁紙は青色、だから時とすると、海のやうな風が吹く事もあり、難船の夢を度々見るのです。

 此セシルハウスの住人は女主人姉妹に女中に私と屋根裏のお爺さんがゐます。此人達は終日笑つた事がないのです。
 此間も四階上のはばかりにいつて、扉があかないので、悲観してゐると、扉の外で、「オス・ムカウ」と怒鳴る人がありました。向ふへ強く押すと、背の高いお爺さんが、むつゝりして立つてゐます。だから、此屋根裏の老人とはこれが初対面で、最後でした。日本へ行つた事もある人でせうか、「オス・ムカウ」には微笑しましたが、私なんかも、そんな英語をつかつてゐるのですよ。

 夜はなるべく早く寝る事にしてゐます。寝つく前は本を読む事です。仏蘭西語を少しやつて、あとは出鱈目に読書します。今は何も読むものがなくなつて、岡倉さんの茶の本なんぞを読んでゐますが、大変面白い。ーーところで、今朝は、紅い封蝋の厚い銀行からの手紙を貰つたのですよ。まるでお伽噺でせう。巴里で電報を打つた××社から云つたゞけの金を送つて来たのです。
 全く奇蹟だ! 私は何も手につかなくて、豹のやうになつてしまひました。人間には仲    々複雑な現象があるものです。
 ピヤノの蓋をあけて、一直線に指を走らせましたが、私の今の心のまゝに鳴つてくれないのです。まるで、井戸の底へ石を投げるやうだ。軽いかう風の吹くやうな音と云ふものは此世にはないのだらうか。私は思ひきり此ピヤノをけいべつしてやりました。
 何度も寝台にひつくり返へると、四隅の北国風な鈴がザリンザリンと鳴るのです。
 さあ、巴里まで一直線だ。それから伯林、モスコー、日本へは少し足りません。電報を打つた時に来てゐたら、私はまだ少しは持つてゐたのですが、まあまあ、帰れないのは何より、私は元気になつて、一ヶ月の倫敦生活に訣別する事にしました。さて離れるとなると倫敦はまたなつかしい。

 


 倫敦では博物館を見ました。イースト・エンドを歩きました。ユダヤ人の町を見たり、ピカデリー広場の地下鉄に出てゐる淫売婦も知つたし、オクスフオードの大学都市も、テームス河の魚市場も、マルクスの墓も、芝居も、等々、私はこまめに歩いて行きました。言葉が解らないので、紙と鉛筆を持つて、よく歩く事です。184と云ふ赤自動車は帰りの私をホウランド・ロードの街角まで運んでくれる。倫敦の乗合自動車は一区四銭あまり、つまりワンペニイです。
 倫敦の博物館は素的です。全く、大きい声では云へないのですが、よくもあんなに世界の各国から大泥棒が出来たものだと思ひます。日本の古代の青銅器なんかも沢山ありました。壁といふ壁、空間のない程の豊富さで、私を一番感嘆させたものに、陶器の部屋がありました。
 ーー昼から倫敦大英博物館に行く。陶器の部屋は好きだつた。特に東洋のものはいゝ。藍色ひといろの清楚な色調は、やがて盛られる美味しい食物を連想させてくれる。
 西洋の陶器の味はどうだらう。これは全く舌からはづれた、遠い眼の観賞に任せるべきだらう。一枚の皿にも、デコデコに沢山の色を塗るか、凹凸をつけるか、始終何かをおしやべりしてゐなければ気の済まぬ西洋皿。ーー私は部屋隅にあつた古い支那製の壷にそつと頬をつけてみたりした。それは冷くて円い。肩の辺には、小鳥が二羽藍色で描いてあつた。全く静かすぎる。私は何故か、日本の母親の事を思ひ出した。此壷に、二三枝の黄がかつた梅の花でも投げこんだらどんなに人達はその美しさに驚くだらうか。
 これは博物館を見た時の日記ですが、英国の博物館だけは、巴里のルーブルでもかなはないでせう。
 本当に一月中は何も仕事が出来なかつた。が、此頃になつて百枚ばかりも書きました。母へ少し送つてやりたいと思つてゐます。百枚と一口に云つても旅では仲々だ。疲れてぼんやりしてしまうのですが、元気を出してゐます。
 上海まで戦争が広がつて行つたやうですがいつたいどうなるのでせう。外国へ来てゐると、毎日の新聞で、日本の評判が悪いのが気になる。全く、上海までとは×××ではないのですかね。
 トラフアルガル広場の、支那コンミタンの示威運動も、あまりパツとはしなかつたが、支那婦人の火を吐く愛国の演説には感激してしまひました。
 ねえ、誰だつて国を愛してゐるのだ。国を愛しきつてゐるのです。
 ねえ、国だの金だの人民だのを玩具のやうにしてゐる×××××達を、そんなのからどうにかならないものだらうか。
 世界大戦の跡、どこに平和が来たのだらう、各国の人民が疲れきつて、ーー外国を歩いてゐると、今でもブンブンと血腥いベルダンの匂ひがします。足のない男、片手のない男、片眼のない男、そんなベルダンの遺物が何をしてゐるかと云ふと、大抵は、サンドウイツチマンか、乞食か、ヴイオロンをひく芸人です。かつては人気の焦点になつた××さんの末路が欧州各国にうようよとはけ口がないのよ。
「そんなに呑気な事を云つちや困りますよ。日本は今食ふか食えぬかの境ひめだ。豊富なお××の物を失敬する事も萬やむを得ないでせう。」
 たまらない理論だと思ひますよ。

 


 巴里の職業紹介所もそうでしたが、倫敦の職業紹介所は、これは寿司詰の盛況で、毎朝、何丁となく失業者が行列で順番を待つてゐます。
 全く世界が飢えてゐる。日本でも昔は平和博覧会なんてあつたのですがね。ーー誰達の為に飢えて、いつたいあの長い行列をつくるのだらうか。
 日本は温いと云ふ事ですね、倫敦は雪の日が多い。旋風のやうに雪がくるくる舞ひながか降り込めて、馬車の上から、石炭の御用はと、石炭屋が雪の中を馬をひいてゐます。倫敦の、此辺の町並はみなつましくて、帽子なんぞも色あせたのをつゞくつて、おかみさん連中は平気でかぶつてゐます。
 近日、いよいよ倫敦を引きあげるつもりでおります。
 倫敦! 浅い日で論じる事は厚かましいが、要するに、芝居も、文学も、儀礼も、英国はもう田舎つぺの感じですよ。
 芝居に行くにも着物を着替へて行くんですから、仲々一寸やそつとのカンタンさではない。文学だつて、セキスピアはこれは論外ですが、現代の英文壇なんぞと、日本の方が華華しい事は上でせう。バアナアド・シヨウがゐるつて、私はきらいだな。少しねぢくれてゐますよ、ピントが、此頃は盛んに露西亜の悪口を言つてゐるやうです。中々きまぐれな良い爺さんだ。
 芝居も、私は此まゝの服装で御免かうむつて見て来ました。アデルビイと云ふ一流の芝居小屋で、歴史劇ヘレンと云ふのをやつてゐましたが、何だか活人画のやうに美しくて、巴里のシヤリヤピンのドンキシヨツトとは雲泥の違ひです。ーー声が小さくて唄がカサカサしてゐるのです。倫敦は外よりも家庭に落着けるところです。爐の火と云ふものは、欧州の思ひ出の中で私の一番なつかしいものになりました。
 こゝで一番面白く見たものに、巴里のユニプリイのやうな均一百貨店のある事です。日本にもあるでせうか、きつとまだ出来てゐないと思ひます。
 一ツの街々にはかならず一軒はその百貨店があるのですが、プロレタリア階級にとても便利です。
 此百貨店にはいると、六ペンス(約二十四銭)以上のものは絶対にないのです。六ペンス以下の商品ばかりです。ーー石けん。お白粉、首飾、指輪、糸類、雑誌、子供レコード、レース、布地、花の種、食器、金物、電気の傘、鍋、籠、文房具、菓子、立食堂のコーヒーやパン、サンドウイツチ、野菜や、乾物、食料品、造花、玩具、ピクニツク道具、単行本、肌着、パンツ、安全剃刀、硝子類、全く豊富な六ペンスの店で、一ペンスの散紙まであるのですからチヨウホウで、こゝだけは、芋を洗ふやうでした。それに昼の立食堂は、六ペンスで腹がふとるのですから大変な人です。
 日本には、こんな安物百貨店が一軒位出来ても面白いと思ひます。レースだつて、一ヤール一ペンスからあるし、こゝへは朝々二ペンスの紅茶を呑みに通ひました。
 実に気が利いてゐて、売子も綺麗です。店の飾窓には、その月の売れそうな人気者を沢山飾つてあつたり、ひとつ誰かに此様な店を薦めませんかね。五十銭以下の均一店のマガザンなら流行する事受けあい、但し店がまえは、ほてい屋より大きいと思ひました。
 物価は何と云つても高い。為替相場は日本と同じ位でも、こつちの十円は日本の五円位の価値ですよ。日本は食物が新鮮で、とても外国の比ではない。   (続く)


 

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< 解説 >

 

 芙美子は1932(昭和7)年1月24日から2月21日までの約1カ月を、イギリスで過ごしている。
 今回はその時期のことを書いた話だ。それぞれいくつかの章に別れているが、これは帰国後に、ロンドン滞在中に夫に向けて書いた手紙や自分の日記の記述などをもとに再構成し発表されたものだ。
 文中に出てくる〝貴女〟という文言は読者を想定して書かれたものと思われる。
 この芙美子のロンドン行きは日記によれば、ドーバー海峡を船で渡り(この時も3等船室であったようだ)、ロンドンへ渡ったとのことだ。
 日本はイギリスと日露戦争前に日英同盟を結んでいたが、それも1923年には失効。1931(昭和6)年の満州事変に端を発し、日本の中国大陸への侵攻が顕在化したことにより、日英関係は微妙なものになっていた。芙美子が文中で、
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外国へ来てゐると、毎日の新聞で、日本の評判が悪いのが気になる。
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と書いてしまったのもそんな理由による。その他にもそこかしこに戦争の匂いが漂っているのもそんな事情によるところだ。
 

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01_Trafalgar Square

 *1928年頃のトラファルガー広場。中央の脊柱はネルソン記念像

 

02_Piccadilly Circus

*当時のピカデリーサーカス。ロンドン屈指の繁華街のこの場所には1910年には最初のネオンサインが設置され、1923年には電光掲示板、1926年には最初の信号機も設置されるなど、最先端の場所であった

 

 

 

 

 

 

 

 

 
                         

                                                         

      *この連載は毎週日曜日の更新となります.次回更新は2月26日です。お楽しみに。           

 

                     

 

 


 

                                                                                                 

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林 芙美子

1903年、福岡県門司市生まれ。女学校卒業後、上京。事務員、女工、カフェーの女給など様々な職業を転々としつつ作家を志す。1930年、市井に生きる若い女性の生活を綴った『放浪記』を出版。一躍ベストセラー作家に。鮮烈な筆致で男女の機微を描いた作品は多くの人々に愛された。1957年に死去。代表作は他に『晩菊』、『浮雲』など。

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