三等旅行記

三等旅行記

#26

巴里の生活

文・神谷仁

 

「巴里の料理店は、男や女の為と言ふよりも家族の為にある

 

 

 

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< 巴里案内 >

 

 巴里のちよいとした街通りで眼につくものは、出来上りのスカートを売つてゐる店だ。

 此出来上りスカートは、どの階級の女に売れるかと云ふと、たいていは商店の上さんや、月給取りの細君連中がはいつてゐて、中々便利に気が利いて見える。 私のアパルトの女主人も、此出来上りスカートをはいて、上から同じ色のジヤケツを羽織つてゐたが、「仲々安直でシイクだから、お前も部屋着にどうか」と自慢された位であつた。で、つひに私も、出来上りスカートなるものを買ひに行く事になつたのだが、いざ出かけて見ると、私の腰が二ツもはいりさうなのばかりなので、つひにあきらめて止めてしまつた事があつた。 綿繻子で出来たグリンのサキユラ型や、灰色のセル地で出来たのや、黒だの白だの自由に選べる。値段はたいてい二三円止りで、一寸体裁がいゝので、近所の芝居位にはいて行ける。–此、スカートを売る店と云ふのが、また仲々面白い。昔銀座のライオンの隣りに、世界一小さい店だと云つてネクタイ屋があつたものであつたが、あんな風な露地や、アパルトの出口を利用して、色々なスカートが戸口にぶらさげてあるのだ。

 「腰つきを新しくしなくちや、あの人に嫌はれるよ」 戸口の椅子に腰をかけたスカート屋の主人は、こんな軽口を叩きながら、買ひ物してゐるお上さん連中に呼びかけてゐる。 此スカート屋へ這入ると、安物の靴下から、綿入りのジヤケツ位は揃えてあるので、一寸した部屋着は此スカート屋で間に合ふと云ふものだ。巴里のごみごみした裏街を歩いて、此スカート屋の前を通ると、妙にレヴイユウを見るやうで、一寸楽しくほゝ笑ましい。腰つきのいい所帯臭い女がぶらさがつてゐるやうで、私は長い間、此スカートに関する道化た物語りを考へて歩いたものであつた。

 日本では百貨店の食料品部に行くと、カツレツとサラダが折の中にはいつて並んでゐる。その他、寿司でも菓子でも、刺身でも折詰になつて売つてゐるやうであつたが、巴里の食料品屋では、折詰と云ふものがない。したがつて、二十銭とか、三十銭とか均一の値段もつけてはない。–店の硝子戸越しに覗くと、大きな瀬戸引き皿に、貝料理やサラダや、肉料理なぞが、ずらりと並んでゐて、お上さん達は自分達の食べるだけをキログラムで自由に買つてゐる。

 私は、よくパン屋で、小さい長いパンを買つて来ては、此食料品屋でサンドウイツチをこしらへて貰つたものだ。 パンの横腹で包丁を入れて、鶏肉や、トマトや胡瓜、塩豚などを挟んでくれて、十五銭位で大変美味しいサンドウイツチが出来上る。 ジヤムを買つて、コツプを返へしに行くと、コツプ代だけ引いてくれるし、一寸した料理の仕方などは、親切に教へてもくれるし、仲々気の利いた台所局ではあつた。

 台所と云へば、巴里の住宅は、ほとんどアバルト住ひが多いので、日本のやうに、あんなにきまりきつた台所を所有してゐる家は少い。それに、たいていは戸外のレストランを利用する家族が多いので、大した台所も必要ではないのであらう。

 日本のレストランが、まだまだゼイタク視されてゐる間は、一家の主婦が台所から解放されると云ふ事ははなはだ遠い事であらうと考へる。少しばかりの欧州滞在で、帰つて来て今さら気がついて驚いた事は、私の近所のお上さん達が、朝から晩まで台所で働いてゐると云ふ事であつた。

 例をあげて云つて見るならば、私の隣家は六人家内で三人は子供、お婆さんに御主人にお上さんと云つたぐあひで、御主人が出掛けて行くと、後始末にお昼まで台所に坐つてゐる。昼は子供達と台所で食事を済し、それから暫らく洗濯に過し、それから一寸昼寝、昼寝から覚めると、晩食の仕度、行水の仕度、夜は縫物、私は、朝から晩まで軒をつらねて見る、此気の毒な隣家の主婦に何と云つて敬意を表していゝか、言葉が見つからない位であつた。

 巴里で見た私の隣室の家族は、子供が三人、主婦と御主人と、五人暮らしで、土曜日曜以外は、食事はいつも家でするのであつたが、朝はキヤフヱにパンのまゝで済まして、主婦は子供を三人連れて、すぐ近所の公園に出かけて編物か読書に過ごし、帰つて来ると、アパルトの掃除人が掃除を済ませてゐるので、子供達をおいて訪問に出かける。訪問から帰つて来ると、着物を変えて、御主人の口笛を待つてゐる。 窓の下から口笛が鳴ると、三人の子を連れた主婦は、御主人の腕にもたれて、近くの料理店で子供達と一緒に食事を終り音楽を聞きに行つたり街を散歩したりするのだ。 つくづく私は此主婦達に、うらやましさを感じてしまつた。台所と言ふものが、非常に事務的に考へられてゐるので、此様にカンベンに日々を送る事が出来るのであらう。

 日本の台所は、皿が何枚、客膳が何枚と、全くお話にならぬ程ハンサすぎる。日本の主婦が、台所から解放されるのは何時の日の事であらうか。  

 巴里では一人者の自炊生活であつたせゐか、此そうざい屋のあるのには嬉しくなつてしまつた。

 外へ出た帰り、一寸此そうざい屋に寄つて酢漬の胡瓜に、塩蓋位買つて帰ると、茶だけ沸かして食事が済む。 だから、巴里の生活では、台所がめんどうだなんぞと、かこつやうな事は一度もなかつた。そうざい屋の物に厭いて来ると、近所のレストランで安い食事が出来るし、その料理店の入口には、その日の献立が出てゐると言ふ塩梅で、全く巴里の料理店は、男や女の為と言ふよりも家族の為にあると言つた感じであつた。

 私の右隣りの部屋には、医科大学生兄弟が住んでゐた。 クリスマスの夜、部屋を間違へて、私の部屋に侵入して来た事から口を利くやうになつたのだが、巴里の大学生は、日本の大学生と大分おもむきが違つてゐて、朝から夜まで急がし気であつた。 兄の方は内科を専門に勉強して夜は自分の趣味だと言つて天文学の研究に通つてゐたし、弟は眼科専門で夜は自動車学校に通つてゐた。

 「これからは、一ツの専門だけでは、生活はむづかしいし、生活がすぐ空虚になつて来る。で、学費がゆるせば、まだまだ研究したい事が山ほどあるのだが」と学費の少ない事を此大学生達はこぼしてゐた。

 「一ヶ月どの位でやつて行つてゐるのですか?」 或日、私はぶしつけに兄の方に尋ねてみた事があつたが、二人で八百法だと言ふ事であつた。日本の金とくらべたならば、今の日本の金にはおそろしく値がないのでくらべものにはならないであらうが、日本で言へば、約七十円位の生活程度に当るであらう。

 ベツドが一ツ、机が一ツ,洋服ダンスが一ツ、これは一人者の私の部屋と同じで、二人が寝るだけだと言つてゐた。 二人共朝早く出て行くと夜まで帰つて来ない。日曜なんぞ、たまに唄をうたつてゐる声が聞える位で、全く、二人の男の部屋とも思へぬ程静かであつた。 それに、此大学生連は、部屋の中へ来客をむかへると言ふ風な事をしないので、いつさ静かであつた。

 「僕達の部屋は客間ではなく、お互ひが休息をする部屋だから、恋人も友達も、外で会う事にしてゐる」 仲々ハツキリした考へだと思つて感心した事である。

 日曜日なぞは、弟の方が自動車に乗つて来て、よく私をさそつてくれたりしたが、人種の差別と言ふものがなく、実に朗らかであつた。やがて此弟の方には、日本語を少しづゝ教へるやうになつたが、割合物覚えがよく、最初に数から覚えて行くのには感心してしまつた。 兄の方はまたピアノも習ひに行つてゐて、ひまがあると楽譜を見てゐた。弟の方は香水を造る事が好きで、いつも香水の本を買つて来てゐた。たまに、此兄弟の恋人が訪ねて来ても、決して部屋に入れると云ふ事はなく、戸口に待たしてすぐ出掛けて行くと云ふ風である。だからでもあるまいが部屋の中はいつも清らかに美しく見えた。 

 

 

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< 解説 >

 

 人気作家になったとはいっても、元々、芙美子はそれほど裕福でない家庭で生まれ育ち、東京に来てからも職を転々としながら貧乏生活を送っていた。

 今回はそんな彼女が、パリの市井の人々について書いた作品だ。 その中で芙美子が、日本とフランスの違いを強く感じたのは、女性の地位や生き方だったようだ。

 明治から大正、昭和を通じ文学を志す女性は、女性解放運動と多少なりとも関わっている場合が多い。 それは元々、日本における女性解放運動の先駆者である平塚らいてうが、日本最初の女性による女性のための文芸誌『青鞜』を1912年(明治45年)に創刊したというのも大きいだろう。その『青鞜』からは多くの女性作家や女性解放運動家が生まれた。

 芙美子が『放浪記』を発表した『女人藝術』を主宰した長谷川時雨もそんな女性の一人だ。彼女はかつて『青鞜』の賛助員であり、女性作家の発掘・育成と女性の地位向上を目指し『女人藝術』を創刊したのだ。 そんな背景があるだけに、芙美子は、パリで軽やかに生きる女性を見て、家庭や男性に縛り付けられ、ただの労働力として扱われている日本の女性のことを不憫に思ってしまったのだろう。 そして芙美子はこうも書いている。

 

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  日本の主婦が、台所から解放されるのは何時の日の事であらうか。

 

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  さて、芙美子がパリに行ってから80数年。日本の女性は「解放」されたのであろうか?

 

 

 

 

巴里下宿

 *パリの下宿先で洗練されたファッションでポーズを決める芙美子(写真提供:新宿歴史博物館)

 

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*長谷川時雨が1928年(昭和3年)に創刊。芙美子が『放浪記』を発表し世に出るきっかけとなった『女人藝術』

 

 

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*パリの辻の花屋。芙美子はこのような街の花売りから花を買ったりするのが好きだった(写真は『三等旅行記』より)

 

 

 

 

 
                         

                                                         

      *この連載は毎週日曜日の更新となります.次回更新は2月12日です。お楽しみに。           

 

                     

 

 


 

                                                                                                 

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林 芙美子

1903年、福岡県門司市生まれ。女学校卒業後、上京。事務員、女工、カフェーの女給など様々な職業を転々としつつ作家を志す。1930年、市井に生きる若い女性の生活を綴った『放浪記』を出版。一躍ベストセラー作家に。鮮烈な筆致で男女の機微を描いた作品は多くの人々に愛された。1957年に死去。代表作は他に『晩菊』、『浮雲』など。

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