三等旅行記

三等旅行記

#25

片田舎ばかり

文・神谷仁

 

「田舎を知つた事が、どれ程得る虚があつたか知れません

 

 

 

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<巴里の田舎  5信>

 

 朝の窓をいつぱい開けますと、向ふの古物屋の背戸から、ねむの桃色の花が見えました。色彩が非常に鮮かです。

‐‐凸凹の多い割栗石の村道を、白い煙をたて、自動車が通ります。 バルビゾオンよ! バルビゾオンの村道よ! 少し許り甘くなり過ぎてゐますが、此甘さは、悔いなく費ひ果したい。

お元気でゐらつしやいますか、田舎の空気を沢山吸ひましたせゐか、蒼ざめてゐた私の頬もあからんで、心まで落ちついて参りました。

倫敦では自殺の事を考へてゐた私もこの新鮮な風景を見ては、そんな考へも犬に食はしてしまへでムいます。 この宿は二食で三十法位でございましたが、一番料理の美味い宿でした。

鶏の野菜入りのポタージユなんか、頬がふるへるやうです。朝は近所のキヤフヱで、キヤフヱの立ち呑みです。

「日本と云ふ国は、爪が一尺程長いさうだつてね」 こんな事しか日本について知識のない老人もゐました。 私の袖を振つて、空を走るのかと笑はせたりもします。

ミレーのアトリエには、感心してしまひました。‐‐女学生の部屋にはきまつてぶらさがつてゐる、晩鐘や落穂ひろひも、此、ミレーの晩年の貧しかつた話なぞ聞きますと、そこいら辺のプロ絵描きの比どころではないと思ひました。 ミレーの家は小作人らしく、相当貧しいものです。

アトリエの土間の入口に、一人寝のベツドがありました。‐‐ミレーは雨に濡れながらこの絵を描いてゐて、ついに此ベツドで死んだと云ふ事でございます。

埃つぽい大きな鏡が一ツ、土の人形が七ツ八ツ台の上にはうり出してあつて、藁製の椅子は、ミレーの尻が突き抜けたかのやうにボロボロのものでありました。

今の、ミレーの子孫は、ミレーの偽物まで造つて売ると云ふ話です。‐‐雑草の繁つた庭も、如何にもミレーの好みらしく、只一ツの長い白椅子が眼につきました。

頬を猿のやうに紅く塗つた案内女は、絵を私に売りつけようと思つたのか、ミレーの友人ばかりの絵の集つてゐるアトリエにも案内してくれたのですが、惹かれる何物もありませんでした。

それよりも、小さい時から、ミレーの作品を知つてゐて、今また、偶然、ミレーの生活を知つたと云ふ事は、何よりも大きな魅力だと思ひます。

テオドル・ルツソウのアトリエにも参りましたが、私の好きな絵描きではありません。此人は小地主で、家のかまへも、中々大きく、人工的な花園には、菫のやうなむらさき色の花がさかりでありました。

ミレーとは只ならない友達でありましたのでせう、墓にも一緒に埋つてゐると云ふ事です。

古い梁の出た中二階のアトリエには、晩年の描きかけの絵がそのまゝになつてゐて、やはり、室内は素朴な調度でありました。

ミレーの絵は見てゐて心が澄んで来ますのに、ルツソウのは、少しばかり紳士芸で、さう好きではないと考へました。

フオンテンブローに二日、バルビゾオンに三日、実に風車のやうなあわたゞしい旅でありましたが、巴里のやうな都会を知つた事より、田舎を知つた事が、どれ程得る處があつたか知れません。

帰途は船のコースを選びたいと存じます。マルセイユウの海辺の町にも、少し住んでみたい計画でもをります。

カンヌや、ニースも見物してゐらつしやいと、おつしやつて下さいましたが、今の私にはそのやうなところは少しも魅力がないのであります。

動かない風景、動かない人の心に飢えてゐますので、当分、片田舎ばかりを、さがして歩いてみたいなぞ考へてをります。

草の葉の蒐集は、かなり相当なものになりました。いづれ海辺の町からおたよりさしあげようと思つてをります。       一九三二年七月

 

 

 

 

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< 解説 >

 

  芙美子のパリでの日記は、直筆のものが現存している。その日記を元に戦後の昭和22に東峰書房より、『巴里の日記』を出版しているのは、これまでにも述べた通りだ。

そのどちらにも、芙美子の田舎旅に同行していたといわれる白井晟一は・S氏・として頻繁に登場する。

実は直筆の日記では、この巴里の田舎旅行に言ったと思われる部分は破り捨てられていて、空白となっている。

おそらくその部分は、芙美子が帰国後、破いたと思われるが、その直筆日記のその前後と、後に出版された『巴里の日記』を併せて読んでみよう。

 

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四月二十日(水曜日 mercredi)

ざんざ振りの雨の日。無意(為)なり。

夜、Sと二人モンパルナスのホテルのサロンでコニヤツクを呑む。胸ゐたむおもひなり。

「旅から帰へつたらこゝへでも泊まりませう」そう云つて二人で部屋を見せて貰つたりする。

Sのベルリンへ帰へる日もあと数日、何も云はない。何も云へない。

誰が悪いと云う事もない。皆いゝのだから。

帰宅十一時、雨の中を自動車でかへる。 彼の京都の話を聞く。

(『林芙美子 巴里の恋ー巴里の小遣ひ帳、一九三二年の日記、夫への手紙』(今川英子編・中公文庫より)

 

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上記はパリの田舎に行く少し前の芙美子の直筆の日記だ。

 

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 五月二日 (前略) 夜、アリアンセ。

帰り学校の隣の画商のウインドウをのぞく。ゴオガンの絵、宝石の如し。

あゝ、私は固い岸を流れる水のようにすなほに生きてゐたい。

野原も遠くなつた 花屋で野菊を買つた どの屋根にもさびしい風が吹いてゐる 自転車が空へ舞い上がつていつた。

夜更けS氏より電話。 近々ベルリンに帰られる由、「逢ひたし」と云う言葉をきいて、しばらくは愛情の波激しく、受話器をみつめて森閑としてゐる。

(林芙美子『巴里の日記』(昭和22年・東峰書房刊)より)

 

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 林芙美子の研究者の今川英子氏は、芙美子と白井晟一が旅行に行っていたのは、4月28日から5月1日までと推測している。 旅行に行く前後の直筆の日記と『巴里の日記』を読むと、白井晟一への芙美子の思いがぼんやりと浮かび上がってくるようだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

01_Atelier_Millet_Bodmer

*19世紀の終わり頃に撮影されたミレーのアトリエ。芙美子は白井と二人でこのアトリエを訪れたのだろう

 

 40巴里日記表紙

*芙美子が実際にパリに居たころに使っていた日記帳。4月25日から6月30日までが破り取られている。おそらく東峰書房より出た『巴里の日記』を、その直筆日記を参考にして書いたあとに本人が破り取ったのではないかと思われる(写真提供:新宿歴史博物館)

 

 

 

緑敏宛はがき

*芙美子が巴里から夫・緑敏宛に送っていた絵葉書(写真提供:新宿歴史博物館)

 

 

 

 

 

 

 
                         

                                                         

      *この連載は毎週日曜日の更新となります.次回は2月5日です。お楽しみに。           

 

                     

 

 


 

                                                                                                 

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林 芙美子

1903年、福岡県門司市生まれ。女学校卒業後、上京。事務員、女工、カフェーの女給など様々な職業を転々としつつ作家を志す。1930年、市井に生きる若い女性の生活を綴った『放浪記』を出版。一躍ベストセラー作家に。鮮烈な筆致で男女の機微を描いた作品は多くの人々に愛された。1957年に死去。代表作は他に『晩菊』、『浮雲』など。

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