ブルー・ジャーニー

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#22

アイスランド 五分前に生まれた世界〈4〉

文と写真・時見宗和 

Text & Photo by Munekazu TOKIMI

耳を澄ましても

 

 橋に差しかかる。

 下は川?

 すべてが白く凍りついていて、川とそうでないところの区別がつかない。

 硫黄の臭いが鼻を突き、ふたしかな道の彼方に灯火が浮かぶ。

 四日目の目的地、クラプラ。

 

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 セルホテル・ミーヴァトンのドアの向こうから、“スコットランド音楽の夕べ”の開演を待つ人びとの話し声や笑い声があふれ出てくる。

 これまで出会った人の数をはるかに越える人たちが、着飾って歩きまわっている。

 荷物を部屋に運びこみ、一階のバーに降りる。

 こんがりと日焼けした、一見してアイスランド人ではないポニーテールのバーテンダーにビールを頼む。

「どこから?」

「日本の東京から。あなたは?」

「スペインから。ここに来る前はフェルテベントゥーラで働いていたんだ」

 フェルテベントゥーラはアフリカ大陸の沖合、約一〇〇キロのところに浮かぶカナリア諸島のひとつ。常夏の島で、ヨーロッパのハワイと呼ばれている。

「アイスランドは初めて?」

「ええ。一周しようと思って」

「まだ冬なのに?」

「寒いところは、寒いときに行ったほうが」

 バーテンダーはふうんという表情を浮かべた。

 高まる一方のざわめきの中で、ぽつんとした気持になる。ひとりで走りつづけてきた四日間、一度もそう感じたことはなかった。

「夕食はどうしますか? 今夜はビュッフェ・スタイル。おいしいですよ」

「けっこうです。ありがとう」

 ビールを手に部屋にもどる。

 

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 約三五〇〇年前、アイスランドがまだ無人島だったころに噴火したクベルフィヤットル山の漆黒が、進むごとに、表情をくるくる変える。

 立ち止まり、立ち止まり、また立ち止まる。

 

 廃藩置県が実施された一八七一年(明治四年)五月二〇日、イギリスの名だたる詩人にしてデザイナー、ウィリアム・モリスはイタリアの友人に向けてペンを走らせた。

──私は今年長い旅をしようとしています。あなたは、芸術のお仕事と美しい気候という贅沢のさなかにいらっしゃるから、私の選択を聞いて、身震いなさるでしょう。イタリアなら、人はいつでも行きたいと思うでしょう。しかし、誰も我が身をアイスランドへ追いやろうとは思いません。芸術は皆無ですし、ほとんどの人にとっておもしろいものは何もありません。あるとすれば、その風変わりな様子と野生だけです。しかし、私は、そこに行かねばならない、物語の背景を見なければならないと、長い間思っていました。それらの物語に対して、私はたいそう共感を感じていますし、アイスランドはその不思議なイマジネーションを生み出し、育むのに関係があったに違いないからです。

 

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 ラクスアゥ川が溶岩にせき止められてできたミーヴァトン湖は、流れこんでくる温泉のために、真冬でも完全に凍結することはない。北海道・支笏湖の約半分ほどの三七平方キロはアイスランドで三番目。深さは平均約二・五メートル、五〇を越える島々が浮かぶ湖面はいつも静まりかえっている。

 ミーヴァトンは「蚊の湖」の意。夏になると──人の血を好まない──蚊の雄と雌が竜巻のように群れ、結婚式をあげる。

 

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 火山が眠ってはいないことを知らせるシグナルがあちこちに見える。

 紀元前から二〇世紀の後半まで、噴火や爆発を繰り返したこの一帯には、さまざまな時代に流れ出たさまざまな種類の溶岩が幾重にも折り重なる。地下には──噴火の影響で温度が上がり、入浴ができなくなってしまったが──温泉をたたえた洞窟が広がる。

 とりわけ大きかったのは、湖の北にそびえるクラプラ山の、一七二四年(享保九年)から一七三〇年(享保一五年)にかけての大噴火。流れこんだ溶岩でミーヴァトン湖は沸騰、湖水のすべてが蒸発した。

 

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  湖に流れこんだ溶岩が引き起こした水蒸気爆発によって生まれた茶色のクレーター群“プセウド”。ここでしか見られない景観にあふれるアイスランドにあって、ここミーヴァトンでしか見られない景観。

 

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 捕食者と被食者がからみあう世界の中心から、遠く離れたアイスランド。食物連鎖の出発点である緑色植物が乏しく、オリジナルの野生動物がいない。在来の哺乳類は流氷に乗ってやってきて住みついたホッキョクギツネだけ。ホッキョクグマもやってくるが、繁殖はしない。

 人里からほんの少し離れ、車を止めてエンジンを切ると、水と風のほかに音を立てるものはなくなる。耳を澄ましても、食物連鎖の歯車の音は聞こえない。 

 鼻孔をかすめる風は、たいてい手ぶらで、勢い意識は視覚に集中し、溶岩台地の表情に、大地の産毛に、ひりひり刺激される。

 

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 イタリアの友人に手紙を送ってから約二カ月後、イギリスを発った三七歳のモリスは、快適とは言えない船旅を経てアイスランドに上陸。さっそく旅の道連れを探しに郊外に足を運んだ。

──ポニーの数は人間よりずっと多く、楽しげに見える。

 初期の定住者たちが持ちこみ、繁殖したポニーは、じょうぶで、忍耐強く、穏和で、二〇世紀以前のアイスランドの重要な内陸輸送の手段だった。

──河床の軽い頁岩質の石は、馬が蹴り上げると風によって飛ばされた。わずかな水もわれわれが通り過ぎると、風に吹かれて薄い水の幕となった。馬がときおり、ほとんど死んだように立ち止まった。馬から振り落とされるのではないかとほんとうに思った。

 三〇頭のポニーと野営を重ねながら “物語”の舞台をめぐるモリスの旅は六週間に及んだ。

 

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 当時、アイスランドをめざした人たちの動機は大きく三つあった。ひとつは特異な地質構造への学問的な関心。ひとつは釣り及びほかに見られない景観への関心。ひとつは古文学 “サガ”“エッダ”への関心。

 イタリアの友人はあきれたが、イギリス・ヴィクトリア朝の教養人たちにとって、モリスの行動は奇行ではなかった。“サガ”が生まれた国、アイスランドは大いなる興味の対象だった。

 海上に頭をのぞかせた六千メートル級の海底火山は、九世紀半ばまで、俗世間を嫌ってアイルランドからやってきたわずかな修行僧を除けば、無人の地だった。

 初期に定住したヴァイキングは、スカンジナヴィアやイギリス諸島に由来する物語や歌を、家族の過去の歴史を自分たちの言葉で朗唱。語り伝えられた散文物語“サガ”は、およそ一〇〇編が現存する。“サガ”は古ノルド語で「語り」「語られたできごと」「物語」を意味する。

 北大西洋に浮かぶタイムカプセルに、古ノルド語で保存された“サガ”。ヴィクトリア朝の教養人の関心の核心にあったのは原点回帰願望だった。

 歴史的伝承小説である“サガ”に対して、“エッダ”は歴史上の英雄を讃える詩、格言、叙情詩などを集めたもの。神話、英雄伝説、箴言の三つからなり、とりわけ神話は、北欧神話、ゲルマン神話を研究する上での貴重な資料として位置づけられている。

 アイスランドの代表的作家のひとり、アイナール・グッドムンメンは言う。

「サガやエッダは子どものころから体の一部になっています。その世界から脱したつもりで文章表現をしても、いつのまにかもどってしまう。この国の人たちは、みんなおなじだと思います」

 

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「ベルトゥ・サイル」

 覚えたてのアイスランド語で別れを告げ、セルホテル・ミーヴァトンを発つ。

 ベルトゥ・サイルは「幸せになりますように」出会いの挨拶は「コムドゥ・サイル=幸せになりましょう」

 言葉の世界においても、アイスランド語は生態系の淵のぎりぎりにある。

 アルファベットは三三字。通常の二六字以外の七文字は絵文字のようで、発音は他に類を見ない。文法、語彙は千年以上、ほぼ不変。だれもがヴァイキングと立ち話ができる。

 詩人ウィリアム・ホルムはアイスランド語を詩に詠んだ。

 この言語の文法はエアコンがきいた部屋ではわからない/かすかな母音の響きがエアコンの回転音に溺れてしまう/山肌を吹きすさぶ風や/小船にぶつかる荒波の音のなかだと/その母音の響きがきこえる(後略)

 不変は普段の努力によって保たれている。

 押し寄せてくる外来語は、国語を守るために組織された委員会によって“サガ”の言葉に置き換えられる。

 電話→シーミ(糸)テレビ→スジョウンヴァーブ(映像を射出するもの)コンピュータ→トルヴァ(数の予言者)

 

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 野生のポニーが草を食んでいる。

 一頭が、手を伸ばせば届くところにやってくる。

 

「もし八日が火曜なら、つぎの金曜日は何日かね」

 一八八八年(明治二一年)、ハンスはヴィルヘルム・フォン・オーステン卿の質問に、蹄を打ち鳴らす回数で解答し、大勢の見物人を驚かせた。ハンスはオロルフ・トロッター種の馬で、飼い主のオーステン卿は元数学教師だった。

 高まる関心を受けて、ドイツ教育委員会が、獣医、動物園園長、調教師、学者、将校、サーカスの団長、手品師を招集。一三名から成る委員会による検証の結果は「ハンスの能力には誤謬は見あたらない」

 真実は一九〇七年(明治四〇年)心理学者オスカー・フングストによって明らかにされた。

 質問者(オーステン卿である必要はなかった)に仕組まれたことではなかった。蹄が打ち鳴らす回数に近づくにつれて次第にこわばっていく質問者の体勢と表情、正解に達した瞬間の脱力、観客や委員会が目をこらしても気づかなかったかすかな変化を、ハンスは読み取っていたのだった。

 

 なにかを思い出したかのように、ポニーが仲間を振り返る。

 息を吐き出しながら、息を殺していたことに気づく。

 

 

(アイスランド編、次回に続く)

 

 

*本連載は月2回配信(第2週&第4週火曜日)予定です。次回もお楽しみに。

 

 

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時見宗和(ときみ むねかず)

作家。1955年、神奈川県生まれ。スキー専門誌『月刊スキージャーナル』の編集長を経て独立。主なテーマは人、スポーツ、日常の横木をほんの少し超える旅。著書に『渡部三郎——見はてぬ夢』『神のシュプール』『ただ、自分のために——荻原健司孤高の軌跡』『オールアウト 1996年度早稲田大学ラグビー蹴球部中竹組』『[増補改訂版]オールアウト 1996年度早稲田大学ラグビー 蹴球部中竹組』『魂の在処(共著・中山雅史)』『日本ラグビー凱歌の先へ(編著・日本ラグビー狂会)』他。執筆活動のかたわら、高校ラグビーの指導に携わる。

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編著・日本ラグビー狂会

     

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