三等旅行記

三等旅行記

#22

アンギヤン駅から

文・神谷仁

 

あなたのお好きな佐藤春夫詩集

 

 

 

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<仏蘭西の田舎 2 >

 

今年は、こちらも雨の多い年だと云ふ事でございますが、日本の此頃は、定めし天気晴朗な日が続いてゐるのでございませう。

ところでーー 飛んだ失敗をしたアンギヤンの駅では、親切な駅長氏から、モンモランシイへのコースを聞きました。 駅から十町ばかり畑道を行くと、モンモランシイ行きの乗合自動車があると云ふ事でありました。で、雨の中を重いスーツケースをさげていつとき畑道を歩いて行つたのですが、何としても雨が強く、顔を向けてゐられないのでございます。

丁度その時、汽車道に近いところに、唐子のやうな赤い看板を出した煙草屋兼キヤフヱがありましたので、暫時そこで休む事にしました。 二人ばかり、強さうな馬方のやうな男が赤葡萄を呑んでゐました。めつたに見た事もない黄ろい人種の私を見て不思議さうにしてゐます。 熱いキヤフヱをすゝつて、例の私の片言でもつて、荷物を頼んで貰つたのですが、まあ、何と運のいゝ事に、馬方だと思つたのは、タクシーの運転手だつたのです。

アンギヤン駅から約十五分で、モンモランシイの丘の上のホテルへ着きました。ーー全く田舎ホテルで、日本で云へば、御泊り宿と云つた感じでございます。バビヨン・ド・フロールと云ふ大したホテル名ですが、こゝも洋燈(ランプ)のはかなさでありました。 三食で二十法あまりでございましたが、こゝの上さんは朱いジヤケツのよく似合ふ働き者で、料理はまるで自分等の家庭で食べるやうに美味しいものでありました。

雨のザンザン鳴る音を聞きながら、洋燈で食事を執ると云ふ事は、何か物語めいて、バルザツクの小説の中にでもありさうな風趣です。ーーホテル・バビヨン・ド・フロールは丘の上の一軒家みたいなところでございますが、夜更けまでも近在の女房連が、店のスタンドに凭れてカフヱを呑みながら世間話をしてゐました。  

裏の窓を明けると針樅(はりもみ)のたぐひでございませうか、鬱蒼と山いつぱいに繁つて、夜明けなぞは、閑古鳥の啼く声さへ聞えました。此モンモランシイでは全く雨に降りこめられて、まるで私は葡萄酒を呑みに来たやうな気がしたものです。それでも、宿の好意で雨傘を借りて、私は森の奥深く這入つて見たのでございました。

黒い樹間には白蝋のやうな李の花がしぶきしたやうに咲き、雨の山間には花の匂ひがいつぱい溢れて、私の心の底にまで沁みる程此花の空気を吸ひ込みました。

その山間の森の中には城跡らしい石垣があつて、日本風にお濠がその城跡を囲んでゐました。 泣き濡れて、秋の女よ わが幻の中に去る、 泣き濡れた秋の女を 時雨だと私は思ふ、 一しきりわたしを泣かせ またなぐさめて秋の女よ、 凄まじく枯れた古城の道を わが心だと私は思ふ。   あなたのお好きな佐藤春夫詩集の中に、たしか此様な一節がありましたが、古城の水のない濠端に立つて、雨の中の閑古鳥の啼く声を聞きますと、信州にでもゐるやうな現な気持になつてしまひます。 いつも魂の苦汁をすゝつてゐる私に、此詩ほど、此風景程、私を慰さめ甘くしてくれたものはありませんでした。  

 

 

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< 解説 >

 

やっとのことでモンモランシーに到着した芙美子。

なんとかホテルも見つけられてホッと一息といったところだろうか。 彼女が文中で引用している詩は、彼女が書いているとおり佐藤春夫(1892~1964)の『秋の女(おみな)よ』というもので、彼が1923年に発表した『我が一九二二年』という詩集に収められている作品だ。 この佐藤春夫は10代から詩人として高い評価を受けた人物で、後に作家としても活躍した。

彼は1930年に谷崎潤一郎の妻・千代を巡る細君譲渡事件の当事者としても知られている。

この事件は、谷崎潤一郎が自らの妻・千代と離婚。そして千代を佐藤春夫に譲るとして3人連名の挨拶状を知人に送り、当時は新聞などでも報道され反響を呼び起こしたという一件だ。

こんなことが起こった背景には、佐藤が谷崎の妻に横恋慕し譲れと迫ったとか、谷崎が他に好きな女性ができ邪魔になった妻を佐藤に押しつけた、など様々な説があるが真相は藪の中だ。

こんな事件に代表されるように、当時の文学者たちは、それが“嗜み”であるかのように、伴侶のあるなしに関わらず、“恋愛”をするのがお決まりだったようだ。

それは、昔から恋愛体質だった芙美子も、例外ではない。 このフランス旅行も好きになった男性を追いかけてのことだと言われている。

そして、今回の文中に登場した“あなた”とは、日本に残してきた夫ではなく、おそらくは芙美子が懸想しているその日本人男性のことだったのだろう。  

 

 

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*現在もわずかに残っている、中世に建てられたモンモランシー城の城壁

 

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*佐藤春夫 1892年(明治25年)4月9日生まれ。1964年(昭和39年)5月6日死去。和歌山県生。生田長江・与謝野寛に師事。詩認められ世に出たが、のち作家として活躍。文化勲章受章。著に『田園の憂鬱』『晶子曼荼羅』など。文中の『秋の女(おみな)よ』は曲が付けられ歌唱曲としても親しまれている 

 

 

 

 

 

 
                                        

                             

                                                         

 

      *この連載は毎週日曜日の更新となります。次回更新は1/15です。お楽しみに。           

 

                     

 

 


 

                                                                                                 

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林 芙美子

1903年、福岡県門司市生まれ。女学校卒業後、上京。事務員、女工、カフェーの女給など様々な職業を転々としつつ作家を志す。1930年、市井に生きる若い女性の生活を綴った『放浪記』を出版。一躍ベストセラー作家に。鮮烈な筆致で男女の機微を描いた作品は多くの人々に愛された。1957年に死去。代表作は他に『晩菊』、『浮雲』など。

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