日本一おいしい!沖縄の肉食グルメ旅

日本一おいしい!沖縄の肉食グルメ旅

#20

山本彩香さんに聞いた沖縄の肉料理と文化

文・藤井誠二

 

沖縄にもかつては豊かで繊細な「シシ(肉)料理」があった 

 胃袋をガシッと掴まれるとはこういうことではないか、と思ったことがこれまでの人生で何回かある。その一軒が──料理人が──伝説的な琉球料理店『琉球料理山本彩香』(現在は閉店)を経営していた、琉球料理家・山本彩香さんだ。

 当時、店は那覇市の久米にあって、私は老いた母親を連れて何度かうかがったことがある。本来の琉球料理とはこれほど繊細で美味いのか、と当時、いわゆる「沖縄料理」には少々、食傷ぎみだったぼくは大いに瞠目した。とくに、「どぅるわかしー」(田芋にいろいろな具材を混ぜ込んだ料理)と「ラフテー」(豚の三枚肉を煮込んだ料理)には感動すら覚えた。週のうち数日しか店を開けないという、仕込みの徹底ぶりにも驚かされたと同時に、深く納得したものである。

 じつは、本連載のための取材や調査を進める過程で、山本彩香さんに何度もお目にかかり、貴重なお話をうかがうことができた。とりわけ、沖縄の「肉料理」についてお話を何度かうかがってきた。ぼくたちが山本さんに不躾な質問をしても、いつもに気さくに応じていただいたばかりか、自ら仕込んだ料理を用意してもらい、堪能させていただいたこともあった。これは僥倖としか言う他ない。

 山本さんは1935年の東京生まれで、沖縄出身の母親と東京出身の父親との間に四番目の子供として生を受けた。両親が貧しかったため、東京で生まれた山本さんは、2歳の頃に、養子として実母の姉に預けられた。育ての母となってくれた崎間カマトさんは1907年生まれで、辻遊郭の尾類(ジュリ)だった。本土の一般的な遊郭とは異なり、辻の芸妓は舞踊や音楽で男性を楽しませるだけでなく、料理でもてなす文化があった。カマトさんは辻の中でも群を抜いて料理に長けていて、山本さんはその味を継いだことになる。

「チーヂ(辻)は、もてなしの場でしたから、辻人(チーヂンチュ)たちは、春を売るだけが目的ではありません。辻の女性たちは舞踊にも、料理にも精通していました。琉球王朝時代は王が代替わりをするときに中国から冊封使を招くのですが、季節風の関係で場合によっては半年間船を出すことができないので、那覇の天使館に滞在し、辻にも通うわけです。そのときは、首里城内の包丁人が辻に出向いて料理を教えることがあったのです」

 崎間カマトさんは、津覇ウトゥさんという尾類から料理を教わったそうだ。津覇さんは琉球処分前からの尾類だった。つまり、山本さんの味は時代をまたいで津覇ウトゥさんから受け継いでいることになる。

「ウトゥさんは、首里の包丁人から直接、料理を教わっている可能性もありますね。料理を振舞うだけで一度に12人をもてなしたということで1ダースのアンマーと呼ばれたほどの腕前だったそうで、明治末期から大正期にかけて周囲の人に料理を教えていたそうです」

 そんな山本さんは崎間カマトさんの下で育ち、6歳で舞踊の初舞台に立ち、料理は8歳から始めた。

「私の初めての料理は薬づくりでした。戦時中に、母ちゃん(崎間カマトさん)が卵巣炎でものすごい高熱で寝込んだことがあったんです。それで、どうしても料理をしなければいけなかった。だから、私の料理の始まりは薬づくりからだったんです。熱冷ましにはミミズが効くということで、きれいに泥を吐かせて、きれいに洗って、ガーゼの袋に入れてコトコトと煎じ、それを飲ませたんです。料理は母ちゃん(崎間カマトさん)に直接教えてもらうというより、日々の料理を食べるうちに舌で覚えたんです。母の料理を食べた後では、他の料理を食べるのが躊躇してしまうぐらいの美味しさでした。母が台所で豚を茹でていて、私が母の背中をつつくと、固ゆでした豚肉の切れ端にほんの少しだけ塩をまぶして食べさせてくれた。最高のおやつでしたね。私の味の原点です」

 

okinawa20_01yamamoto2

琉球料理家・山本彩香さん。貴重なお話を聞かせていただいた

 

『てぃーあんだ』(沖縄タイムス社)という山本彩香さんの著作がある。ぼくが沖縄に惹かれ始めた頃に何度も読んだ。通常のレシピ本と違う、食材や調理に対する智恵が収められている。本連載で沖縄の肉の食べ歩きを初めてから、あらためて読み直す機会が増えたのだが、今は沖縄の料理にはほとんど使われなくなった食材=内臓も食材を使った料理がいくつも紹介されている。たとえば、「豚の内臓と洋野菜のいためもの」は、内臓はマーミ(心臓)、チムグヮー(肝臓)、タキーマーミ(すい臓と腎臓)に、洋野菜としてブロッコリーやセロリ、そしてウチナーにんじんを豆腐とともに炒めた料理だ。

 これらの料理について山本さんにお聞きすると、これは育ての母である崎間カマトさんの影響だと話してくれた。山本さんが本土に出かけるときなどは、「加工食品ではなく、食材を買ってくるように」と言われたそうだ。

「母ちゃん(崎間カマトさん)は、どのような食材でも見事に琉球料理にしてしまう達人でしたね。(内臓料理では)牛のセンマイ(三番目の胃)を使った料理を作っていました。当時は、季節によって採れる野菜に限りがありますから、冬になるとニンニクの葉とセンマイに赤味噌を足して炒めた料理をまかないとして食べていたのです。センマイは形状がアメリカ製のバスタオルに似ていたので、“また、バスタオルを食べたいね”とふたりで話をしていましたよ(笑)」

 泡盛の古酒を取り揃えた店で山本さんと何度目かにお会いしたとき、山本さんはタッパーに食材を用意して持ってきてくれていた。チラガーの耳の部分(ミミガー)をボイルして一口大にカットしたものに、玉ねぎと小松菜だった。沖縄でミミガーというと、ピーナッツバター炒めというイメージが強いが、「昔はこういう食べ方もしていたのですよ」と、店の主にこれを炒め合わせるように頼んだ。かつては、家にある有り合わせの野菜をチラガーとオリーブ油で炒めて食べたそうだ。

 私はかつてこの「組み合わせ」を沖縄で食べたことがある。たしかスモークしたチラガーとピーマン、玉ねぎを炒め合わせていて、分厚くカットしたチラガーから出る脂が野菜にまわり、その味に病みつきになった。以来、沖縄に来るとスモークしたチラガーを買い自分でもいろいろと工夫してみるようになり、結果的には玉ねぎだけというシンプルな組合わせになったが、私はそればかり作っていた時期がある。ベーコン以上にチラガーはフライパンの中で香ばしい脂を出し、まだ若かった私の胃袋は喜んだ。

 ところが、山本さんが持ってきてくださったチラガーからは、ほとんど脂は出なかった。それは丁寧に脂の部分をそぎ落とすというひと手間をかけていたからで、肉の旨みだけが野菜に移り、さっぱりとした味わいの上品な料理に仕上がっていた。チラガーの食感もちょうどいい。今のぼくの年齢にはこのほうが舌にも胃袋にも合う。

 

okinawa20_2_037

山本さんが持ってきてくださったチラガー。玉ねぎ、小松菜と炒め合わせる

 

okinawa20_3_050

さっぱりとした味わいのチラガー炒め

 

「でもね、沖縄に“焼く”料理はほとんどなかったんですよ。焼くという調理方法が少ないのは、お腹を満たさなければならないから、汁のほうがよかったのだと思う。ンジャナバー(苦菜)をたっぷり入れて健康も考えながら、お腹いっぱいになるように。おいしく食べるというより、健康的な身体をつくらなくちゃいけないということが先に考えられたのだと思います」

 沖縄は暑い地域なので、1955年頃までは自家製の赤味噌しかつくることができなかったとも山本さんは言っていた。白味噌に比べて赤味噌は塩分濃度が高く、熟成期間が長いのでコクもある。

「味噌を使うことで肉の臭みもとれた。味噌を寝かせる瓶は、発酵を促すために、毎日、奥まで手を入れて掻き混ぜるので、甕は手の届く程度の大きさで作られているんです。とりわけ内臓の臭みとりは、味噌以上に洗い方が重要でした。昭和の東京オリンピックの頃までは、生の内臓肉を買ってきて、洗って調理しました。豚の肺や腸のような臭みの強い食材でも、それをどう洗って調理するかが腕の見せどころで、店で既にボイルされた食材ではなく、生で買って、自分でしっかりと洗わないと臭みがとれないんです。小麦粉で揉んで、そして米ぬかを入れ込む。水に入れ、煮沸させるのではなく、ポッコンポッコンとするぐらいの湯加減で洗うと臭みがきれいにとれるんです。完全に煮立ててしまうと臭みはとれないのです」

 山本さんも言うように、沖縄では、内臓類を含めた肉全般は「焼く」文化よりも「煮る」文化が大半を占めていた。シンジムン。汁もののことだ。そのほとんどは今はポピュラーな存在ではなくなってしまったが、山本さんの経験をうかがっていると──沖縄の一部ではあったかもしれないが──焼いて食べられていたこともわかった。豚の脳に小麦粉をまぶし香味野菜といっしょに揚げた料理もあったという。「ふわふわになるんですよ」。そう山本さんは懐かしがった。かつては、もしかしたら、今よりもずっと繊細で多様な内臓を含めた肉料理が沖縄にはあったのだろう。

 ぼくは本連載の取材で沖縄本島各地(主に中北部)の豚のチーイリチャーを食べ歩いたが──ちなみに、山本さんや普久原くんのような那覇の人々はチーイチリーと呼ぶ──山本さんに「豚血」料理についても聞いてみた。まず、昨今の衛生基準のせいで豚血が手に入りにくくなった現状について質問をしてみると、「豚血を30度の泡盛で血をもんで、火を通すから(衛生的には)問題ないのに、いまの規制はひどい話ですね」と山本さんはがっかりした表情をした。

 そして、沖縄ではもともとは豚血ではなく山羊血を使っていたことも教えてもらった。それはぼくも知らなかった。

「豚血を使うのは主に沖縄の北部だけで、沖縄ではヒージャー(山羊)の血を使っていてチーイリチーと言います。凝固したものを泡盛でつぶして、そのときも赤味噌を少し入れる工夫で臭みを消していましたね。もともとはヒージャーは子供たちが昔は栄養不足で、もっと栄養をつけさせないとだめだと親が思ったときに山羊をつぶして食べさせました。私が田舎に暮らしているときに見てきたのですが、四本の足を縛って動けなくして、左側の頸動脈を切って、クーラグーという、竹の筒を首につっこみ当てて、血を集めるんです。竹は節を抜いてます。長さは30センチほど。血はシンメーナベや器に出すのだけど、マラリアとか感染症とか、病気で栄養状態がとくに悪い子供には、竹の筒から直接飲ませていましたね。山羊は豚にくらべて血の量はとれないから貴重だったんですね」

 竹筒を使って新鮮な血を飲む。光景が浮かんできそうだ。つぶしたばかりの動物の鮮血を飲む健康法は世界中にあるが、沖縄では山羊は薬的な意味合いを持ったクスイムンなのだ。だから、もともとは「山羊(ヒージャー)料理」という言い方がなかったと山本さんは言う。今は沖縄のどこに行っても「山羊料理」という看板を見かけるから、ぼくは沖縄の伝統的な料理の一種だと思い込んでいた。

「ヒージャー料理とは言わないんです。 ヒージャーグスイとはいうけど、豚はクスイではありません。ヒージャーは一頭つぶして、肉から内臓から全部じゃないとクスリじゃないんです。ヒージャーは刺身も食べるけど内臓も血も一頭全部じゃないと身体に効かないよと言われていました。私より上の人でも田舎で暮らした人しか知らないと思いますが、山羊を殺して藁をかぶせて火をつけて毛を焼く。焼いたあとに洗います。そのときに山羊をつぶした人がタマタマ(睾丸)は取って食べるのだけど、睾丸を包んでいる皮にすこし切り込みをいれて、押し出すようにしてプチュッと直接食べていた。家を建てるときなどにみんなで集まって、疲れたからヒージャーグスイを炊いて、元気をださせようと。今みたいなヒージャー料理ではまったくないんです」

 目からうろこの話だ。そして、山本さんの話は必ず、沖縄の料理や、料理名の「変化」についての苦言や提言へと展開していく。

「今は、ティビチをおでんに入れるでしょう。おでんは関西です。関東煮というのもある。うちの母ちゃんたちは、関東煮といってました。だから、あれは沖縄の食べ方ではなくて、関東煮の影響が広がり、おでんになったのだと思います。本来は蒸して脂を落として食べるのです。それから、本来は肉はゴーヤーチャンプールーには入れません。ゴーヤーだったら卵でとじて鰹節で食べます。でも今は三枚肉も、ポークランチョンも入れるでしょう。がっかりします。スーチキージシと炒めるのも、本来はありません。スーチキージシはそれだけで食べる。せっかくのお肉なのに、なんで肉の味を味わうことをしないの?と思います。

 沖縄では炒める料理は、イリチー、チャンプールー、タシヤーの三つがあります。チャンプールーは豆腐が入らないと、そうは呼びません。料理の言葉もきちんと残したいのですが、いまは何でもいっしょくたにすることを、チャンプールーと言っていますが、違うのです。藤井さんに食べてもらったのは、チラガーと小松菜のイリチー。イリチーというのは炒め煮のことですから、素材に味をふくませるという意味の料理法なのです」

 古酒を扱うお店で山本さんの話をお聞きしながら、まろやかな風味に変化した泡盛の古酒を呑み続けていると、自分がゆるやかに、気持ちよく酔っていくのがわかる。

 山本さんが時間をかけて仕込んだ絶品の豆腐ようとしゃこ貝を和えた逸品も、さらに杯を重ねさせる。手揉みで細かくした鰹節や味噌、粟国の塩、イラブーを粉状にしたものなどをお湯で溶いたカチューユーも山本さん直伝。なんという、やさしい味だろう。何代も引き継がれた、琉球の伝統料理の滋味とはこういう味のことを言うのだなと、ぼくはただただこの贅沢な時間に感謝をした。

 

 沖縄では豚も牛も山羊もめったに食べられない時代のほうが長く、普通に人々の口に入るようになったのは戦後しばらく経ってからのことである。しかし、山本さんのお話をうかがったり、古い文献(料理本)を読んでいると、ハレとケの間仕切りとして「肉」があった時代のほうが豊かで繊細な肉料理文化が受け継がれていたような気がした。

 山本さんは沖縄の料理について「伝承と伝統」という言い方をよくされる。伝承とは昔のままに頑なに守ることだ。極端にいえば火をおこすときにガスや電気ではなく、薪を使うことだ。一方で伝統とは、先人の知恵を守りながらも、それをより良いものにするために工夫や改良を重ねていくことだ。

 山本さんの料理は、三代にわたって受け継いできた料理の知恵に、山本さんオリジナルのアイディアをふんだんに盛り込んだ「琉球料理」だ。これからの沖縄の料理文化──とりわけ肉料理──がどうなっていくのか、食べ歩きしながらぼくはいつも考えている。

 さいごに謝辞。彩香さん、ありがとうございます。また泡盛の古酒をごいっしょさせてくださいね。

 それから、来年(2017年)の春頃から浦添市港川で新しく始められる山本さんの料理教室、ぜひ一度、見学させてください。今からわくわくしています。

 

 

*本連載は、仲村清司、藤井誠二、普久原朝充の3人が交代で執筆します。記事は月2回(第1週&第3週木曜日)配信予定です。次回もお楽しみに!

 

*本連載の前シリーズ『爆笑鼎談 沖縄ホルモン迷走紀行』のバックナンバーは、 双葉社WEBマガジン『カラフル』でお読みいただけます。

 

*三人の共著による、新刊『沖縄オトナの社会見学 R18』(亜紀書房)が好評発売中です。ぜひ、そちらもお読みください。詳細はこちら→http://www.akishobo.com/book/detail.html?id=764

 

 

okinawa00_writer01

仲村清司(なかむら きよし)

作家、沖縄大学客員教授。1958年、大阪市生まれのウチナーンチュ二世。1996年、那覇市に移住。著書に『本音の沖縄問題』『本音で語る沖縄史』『島猫と歩く那覇スージぐゎー』『沖縄学』『ほんとうは怖い沖縄』『沖縄うまいもん図鑑』、共著に『これが沖縄の生きる道』『沖縄のハ・テ・ナ!?』など多数。現在「沖縄の昭和食」について調査中。最新刊『消えゆく沖縄 移住生活20年の光と影』発売。

okinawa00_writer02

藤井誠二(ふじい せいじ)

ノンフィクションライター。1965年、愛知県生まれ。8年ほど前から沖縄と東京の往復生活を送っている。『人を殺してみたかった』『体罰はなぜなくならないのか』『アフター・ザ・クライム』など著書や対談本多数。「漫画アクション」連載のホルモン食べ歩きコラムは『三ツ星人生ホルモン』『一生に一度は喰いたいホルモン』の2冊にまとめた。沖縄の壊滅しつつある売買春街の戦後史と内実を描いたノンフィクション作品『沖縄アンダーグラウンド』を2017年に刊行予定。

okinawa00_writer03

普久原朝充(ふくはら ときみつ)

建築士。1979年、沖縄県那覇市生まれ。アトリエNOA、クロトンなどの県内の設計事務所を転々としつつ、設計・監理などの実務に従事している。街歩き、読書、写真などの趣味の延長で、戦後の沖縄の都市の変遷などを調べている。最近、仲村と藤井との付き合いの中で沖縄の伝統的な豚食文化に疑問を持ち、あらためて沖縄の食文化を学び直している。

紀行エッセイガイド好評発売中!!

okinawa00_book01

島猫と歩く那覇スージぐゎー

著・仲村清司

okinawa00_book02

沖縄うまいもん図鑑

著・仲村清司

okinawa00_book03

一生に一度は喰いたいホルモン

著・藤井誠二

okinawa00_book04

三ツ星人生ホルモン

著・藤井誠二

日本一おいしい!沖縄の肉食グルメ旅
バックナンバー

その他のCULTURE

ページトップへ戻る

ページトップへ戻る