三等旅行記

三等旅行記

#15

国境一重で露西亜と波蘭とこんなにも違ふ

文・神谷仁

 

「此汽車の三等は、まるで一ツの家族みたいなのはどうした事だろう

 

 

 

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<巴里まで晴天 五>

 

 ストロブツヱ(波蘭国境)へ着いたのが、夕方の五時頃ーーこゝの風景はまるで童話の世界だ。何もかもこじんまりと美しく、国境一重で露西亜と波蘭とこんなにも違ふのかと思はせる程風景も違ひ、人種も違ふ。それに乗りかへた汽車は大変美しく清潔になり、何もかもピカピカ光つてゐた。こゝでは、長い間三等列車の道連れであつたゲルマンスキーは、一足飛びに一等の寝台車に転がつて行つた。朝鮮の青年は、三等の二人寝の寝台にはいつて行つて、三等の板の腰掛けに残つたのは私一人であつた。ーー夜が近いせゐか、皆寝台券を買つてゐるらしい。私の居る普通席には誰もゐない。

 時々食堂のボーイが茶や果物を呼売りして行くのだが、金を両替しなかつた私は、辛うじて生唾を呑んで我慢する事にした。

 波蘭はおそろしくパスポートの検査が繁しい。寝たかと思ふとすぐ起してパスポートを調べる。走りながら、怪し気な男がビラをくれる。私服らしいのが、行つたり来たりする。ーー夜更になつて、何人種か、海坊主のやうに大きな爺さんが、どこから出て来たのか、私の隣に来て、白い電燈の灯を消し、紫色の灯をつけた。何か解らない事をしやべつて、私の肩へ手を巻いて来る。何も云へないから、驚いた私は、只大きな声でノンノンノンの連発だ。これは汽車稼ぎのゴマノハイかも知れない。やたらに私の胸の中に手を持つて来る。

 丁度切符を切りに男がはいつて来た。大きな音をたてゝ電気のスイツチを捻つてくれた。海坊主は眠つたふりをしてゐる。切符切りが去ると、若いポーランド巡査が、私の前の椅子に毛布を拡げて横になつた。海坊主はまたどこかへ行つてしまつた。ポーランド巡査は、艶々とした頭髪をかきあげ、海坊主が去るとにやりと笑つて、大丈夫だから横になつて眠れと云ひながら、自分の首に腕を曲げて見せた。眼を伏せて横になつてゐると、何でもないのに私は涙が出て仕方がなかつた。

 夜更け十一時頃ワルソー着だ。灯の明るい街だ。駅は人の鈴なりだ。工場が多い、レールが多い、汽車が多い。素晴らしく女が飛びきり美しい。私はこゝでロンドンまで見た事もないやうな内気な美しい娘さんと一緒になつた。薄い緑色のオーヴアに、同じ色の古い毛皮がついて、茶の濃い靴下がとても足の美しさをましてゐた。お茶も菓子も一緒に買つた。私はアメリカ弗を少し持つてゐたので、それで何でも用がたりた。早く使ふのであつたのにーー。

 二十二日朝、十時頃、伯林シユレジツヒ停車場へ着いた。ケンコウで活気のある街だ。それに、久し振りに日本風のキラキラした朝の陽を見たせいかも知れない。煉瓦工場や、ビール工場なぞを車窓から幾ツも見た。

 伯林の駅は、初めて日本風に屋根もあれば、ホームに売店なぞもあつた。肥えた男達が目につく。フリードリツヒの停車場では、日本の青年に会つた。誰か迎へに来られた様子だが、日本人は私一人でしたと云ふと、戦争はどうなつてゐますかと心配気であつた。此人には弗をマークに両替して貰つたり、電報を打つて貰つたり、人情と云ふものは嬉しいものだと感じながら、名前を聞く事をつい失念して、そのまゝ汽車が走つてしまつた。

 ケルン着午後八時半、ーーこゝからは、十人ばかり仏蘭西兵が乗り合はして来た。空色の小粋気な軍服に、財布のやうな小さい帽子、唄をうたつたり、果物を投げたり、とてもにぎやかを通り超して、大燥ぎだ。

 同室のポーランドの娘さんがあんまり美しいので、仏蘭西兵は呆としてしまつたかたちであつた。それに、長い袂を着てゐる東洋の女が珍しいのだらう、一人の兵隊は私の袖をひつくり返して見たりし出した。

 シノア(支那人)だらうか、ジヤポネ(日本人)だらうかと云ふ小論議が仲間で始まつたらしいが私は沈黙つて眠つたふりをしてゐた。論議が終つたので眼をあけると、私の膝にも、ポーランドの娘さんの膝にも、菓子や果物がいつぱいあつた。兵隊は夜中、仏蘭西の小さい駅に降りて行つてしまつた。大きな声で唄をうたひながら。

 此ヨーロツパ行きの三等列車はまるで日本の乗合舟のやうに、目白押しに並んで腰かけるのだ。夜明近く、仏蘭西の百姓風な家族と、四五人のルンペン諸君が、私の箱に乗つて来た。此人達は、すぐ仲良く話をしあつて、鉄砲のやうな長いパンをムシヤムシヤやりながら、不景気だなアと云ふ風な話を始めてゐる。

 此中には、古風な風琴を肩にした芸人もをれば、赤い首巻きをしたアパツシユ風な労働者、足の片方ない男、頬に弾丸創のある老人、可愛らしい子供達、そんな貧しい人達ばかりだ。ーーさすがに足の無い人や、弾丸創のある人達を見ると、ベルダンの大戦を思ひ出させる。

 汽車の中まで、ドイツ人とフランス人は仲が悪い、「かう不景気がたゝつてゐるのに、わざわざ隣りから働きに来られちやたまらねえや!」向の箱にゐる、ゲルマンスキーの夫婦者の労働者らしいのに、そんなアクタイをついてゐる者もあつた。

 だが、此汽車の三等は、まるで一ツの家族みたいなのはどうした事だらう。長閑で、軽口屋が多くて、いつまでも朗らかな笑声が続いた。ーー無産者の姿といふものは、どう人種が変つても、着たきり雀で、朝鮮から巴里まで、皆同じ風体だつた。

 二十三日午前八時、やつと巴里の北の停車場に足を降した。ポーランドの娘さんにもそのままアデューだ。

 

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<解説>

 まずは、文中に出てくる言葉でいくつか最近では使われない言葉を解説しておこう。「ゴマノハイ」とは、旅の最中に旅客の金品を狙う泥棒のこと。「アパツシユ」とはフランス語のApacheが語源で、昭和初期の日本では流行語ともなった言葉だ。当時の〝現代語〟を解説した本には以下のように説明されている。

 

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パリのモンマルトルに巣喰う猛烈な悪漢団のこと。首にネッカチーフを巻いて、短刀をもって、女を気絶さして、そう云えば獅子も逃げ出すと思うが、彼氏仲々真心を心得て居て、むしろ愛嬌と無邪気八分の悪漢なのである。唄にもある通りカフェで飲んで踊って暴れる程度の可愛さ。だいてやりたい悪漢なのである。『モダン語辞典』1930年・誠文堂

 

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 分かりやすくいえば、少し不良っぽい若者、というような意味だろうか。

 パリまでの三等列車の車内で、芙美子は、そんな一癖も二癖もある様々な人と乗り合わせたようで、彼らに圧倒され困りつつも、どこかシンパシーを感じていたようだ。

 

 さて、芙美子が乗る鉄道はソビエトを抜けてポーランドへ入国。当時のモスクワはヨーロッパとアジアを繋ぐ交通の要衝であり、ここを経由してパリへと向かう鉄道路線は3つの経路があった。ひとつはポーランドのワルソーを経由していくルート、もうひとつはラトヴィアの里賀を経由していくルート、そして最後にスカンジナヴィアを経由するルート。

 芙美子が選んだのは、ワルソーを経由するルートだった。おそらく、このルートはポーランド1国を通過するのみで、ドイツに達する事ができるので、入出国などの手続きが、他のルートに比べ簡単なうえ、時間的にも一番早かったからだろう。このルートはモスクワを出ると、2日目の夜にワルソーに着き、ベルリンには3日目、パリには4日目に着くこととなる。

 東京を発ってから約2週間。いよいよ芙美子は、旅の目的地であるパリへと到着した。

 次回は、芙美子が残した今回の旅の家計簿を見ていくこととしよう。

 

 

 

 

 

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林芙美子のパスポート。ポーランドの国境など各国を通過するときには、彼女はこれを提示していたのだろう

 

 

 

 

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モスクワからパリまでの路線図。赤くなっている部分が、芙美子が通過したルート。

 

 

 

 

      *この連載は毎週日曜日の更新となります。次回更新は11/20(日)です。お楽しみに。           

 

                     

 

 


 

                                                                                                 

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林 芙美子

1903年、福岡県門司市生まれ。女学校卒業後、上京。事務員、女工、カフェーの女給など様々な職業を転々としつつ作家を志す。1930年、市井に生きる若い女性の生活を綴った『放浪記』を出版。一躍ベストセラー作家に。鮮烈な筆致で男女の機微を描いた作品は多くの人々に愛された。1957年に死去。代表作は他に『晩菊』、『浮雲』など。

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