三等旅行記

三等旅行記

#14

ネゴレロヱの税関

文・神谷仁

「モスコー一流の料理屋で、高価な黒いイクラも御馳走になつた

 

 

 

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< 巴里まで晴天  四 >

 

 

言葉が通じたならば、私の露西亜インシヨウはもつと良かつたかも知れない。まるで、活動屋がセンデンにやる試写会のやうな、ソヴヱート友の会の記事にも反感は持たなかつたゞろう。
 私は馬場氏の心尽しで、モスコー一流の料理屋で、高価な黒いイクラも御馳走になつた。ーーだが、私達と一緒に国境まで行く、汽車に残つた貧しい人達の事を思ふと、眼をつぶりたくなるほど、もつたいない気持も感じた。
 ベロラスキー停車場を発車したのが十二時近く、朝鮮人の青年が一人洗面所の中に隠れるやうに立つていた。ーー私は廣田大使への書類を馬場氏に託して安心してしまつた気持と、それに、ルーブルのない私に馬場氏は小銭だと云つて五ルーブルも下すつたし、中々ホツとしたモスコー通過であつた。
 朝鮮人の青年は、なつかしさうに日本語で、ペラペラ話して来た。中々数奇なコースをたどりつゝあるらしい人でもあつた。
 私の部屋には、円くて長い筒のやうなバスケツトをさげた婆さんと、上の床に中年の男が二人、こゝでは毛布も何も貸して貰へないし、スチームが通つてゐないので、まるで破れるやうに体が冷えた。
 私の床の上の男は、オーヴアを脱いで、私の裾にかけてくれたりした。カジ屋さんでゝもあるのか、フイゴのやうなものを沢山持つてゐた。オーヴアを着せて貰つて、妙に泪つぽくなりながら、板の寝床の上に横になつた。時々思ひ出したやうに、大きなボンボン時計が鳴る。向うの婆さんはあゝと云ひながら、寒くてやりきれないやうに起きあがつては足を叩いてゐる。全く、若い者だつて、此寒さには眠られないのだ。私は毛布を一枚持つてゐるのだし、裾のオーヴアをそつと婆さんに投げてやつた。婆さんは喜んで横になつた。
 翌朝、歯の砕けさうに冷い林檎を二ツ買つて食事を済ませた。上の床の男は、黒パンと渋い赤い木の実を少し分けてくれた。婆さんは、ボロボロのビスケツトにバタを塗つてくれた。私はみんな頬ばつて食べた。美味しいと云ふより嬉しくて悲しかつた。
「フウシヤ」と、部屋の人達は私を呼んだ。大変可愛がつてくれる。ーー沿線は雪の跡もない、灰のやうにポクポクした黄土の平野が多く、柳の松のやうなヱリと云ふ美しい木やベリオさせと云ふ美しい木が並んでゐる。ミンスクでは、同室者の人達が皆降りてしまつた。駅は労働者でいつぱいだ。女も男もないと云つた感じ、何かモスコーと違つた強さを感じた。人気の荒いところだと云ふ事だ。こゝからは、アメリカ人の、ひどく下品な男が二人私の部屋にはいつて来た。トーマスクツクの薄つぺらな手型を盛に振りまはして見せた。
 ミンスクは良いところですかと聞くと、眉を蹙めて、ゲヱツと吐く真似をして見せた。そして、テーブルの上に厚く積んだ砂埃に指で字を書いて、こんな不潔なんだからと云つてゐるらしい。此地方ではポクポクとした灰のやうな土質なので、腰掛けてゐると、そこを残して、あとは、すぐ砂でザラザラしてしまふ。日本はどうだと云ふので、私は沈黙つて笑つてゐた。
 此アメリカ人達は、ジヤケツのやうな物を売りに来たらしいが、売れましたかと聞くと、思はしくないらしい顔をして見せた。やたらに、「おゝアメリカ!」を振りまはして、女が美しいとか、道が美しいとか、世界一ばかりを並べ立てゝゐた。
 隣室の朝鮮の青年は、同室のゲルマンスキーに、××××××××××、××××××××××。
 ネゴレロヱ(露西亜の国境)に昼の一時頃着いた。珍らしく冷い風が吹いて、トランクを下げて税関まで行くのに手が痺れるやうであつた。
 ロンドンまで長旅をして来たうちで、此ネゴレロヱの税関が一番ゲンヂユウであつた。第一金の使ひ道から、残りの計算まで、中々時間を取る。こゝでは露貨はすべて返上して、私はポーランドの金を六七十銭貰つた。赤帽が三ルーブルで、中々高価いものだ。税関のところへ行つたのは、私にアメリカ人二人、朝鮮の青年、ゲルマンスキー、露西亜人夫婦、屋根が高いので、ひどく皆小さく見えた。特に、露西亜人の若夫婦は役者でゝもあるのか、今ので見た露西亜人のうちで、一番美しく、似合はしい夫婦者であつた。此人達はワルソーまで行くと云ふ事だつたが、税関吏は、此二人の持ち物を、私達三人分以上もかゝつて調べてゐた。
 トランクの中から、色あせた絹のシユミーズや、袖の片方とれた肌着が乱暴に取り出された。女の方は恥しさうに顔をすぼめて、白いハンカチを口に当てゝゐた。おほかた、白系なのかも知れない。

 

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<解説>

 芙美子はモスクワで、満州里の領事から頼まれた外交書類(本連載の8回を参照)を無事に日本大使館の職員に渡すことができたようだ。
 モスクワは現在でもロシアの首都として知られている。実はこの都市が首都になったのは100年ほど前のことだった。
 1918年、ソビエトによってペトログラード(1924ー91年はまでレニングラード。現・サンクトペテルブルグ)から首都機能が移転され1922年に首都として定められたのだ。
 芙美子がこの地に降り立ったときは、まだモスクワは首都としての歴史は浅かったが、交通の要衝、そしてヨーロッパ有数の大都市であり、観光地でもあった。

 

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莫斬科
 人口二百二十万、三十余りのホテルがあるが「サボイグランド」「メトロポリス」「ユーロペイスカヤ」「ボリシャヤモスコフスカ」が良い。レストラントとしては「ボリシャヤモスコフスカ」が一流である。室代は五留より二十留まで位である。ペトロフカ、ィズネッキー通、、テアトラリナヤ広場、トウエルスカヤ街などが最も繁華な街である。買物は国営のウニウエルサリヌイマガジン(百貨店)又はパッサージが便利である。
 尚市内見物其他には列車発車毎に朴という日本語のうまい正直な鮮人案内人が駅に出るからこの人に頼めば都合よい。

 

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 これは1929年(昭和4年)7月に鉄道省が出版した『西比利亜経由欧州旅行案内』にある、モスクワの解説だ。
 その他、当時の観光案内によればモスクワの特徴として、多くの美術館や劇場があり、革命後の映画や演劇には見所も多く、パリに勝るとも劣らない芸術が楽しめる街と書かれている。
 しかし、残念ながら芙美子は、絵画や観劇を楽しむ時間はなかったようだ。
 ちなみに貧乏旅行をしていた彼女が食べた「高価な黒いイクラ」とはきっとキャビアのことであろう。キャビアは19世紀の半ばからヨーロッパ各地に輸出されており、20世紀には長期間保存が可能な瓶詰めも製造されていたという。しかし、当時の日本人にとっては、国内ではほとんど口にすることのできない馴染みのない珍味だったことだろう。
 

 

 

 

 

 

 

 

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当時のモスクワの写真。白亜の街と紹介されている(『世界地理風俗体系8 ソビエト・ロシヤ編』 昭和6年・新光社より)

 

 

 

 

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1910年代から1930年代初頭までロシア・ソビエトでは、ロシアアバンギャルドと言われる芸術運動が花開いた。写真は当時の演劇のポスター(『世界地理風俗体系8 ソビエト・ロシヤ編』 昭和6年・新光社より)

 

      *この連載は毎週日曜日の更新となります。次回更新は11/13(日)です。お楽しみに。           

 

                     

 

 


 

                                                                                                 

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林 芙美子

1903年、福岡県門司市生まれ。女学校卒業後、上京。事務員、女工、カフェーの女給など様々な職業を転々としつつ作家を志す。1930年、市井に生きる若い女性の生活を綴った『放浪記』を出版。一躍ベストセラー作家に。鮮烈な筆致で男女の機微を描いた作品は多くの人々に愛された。1957年に死去。代表作は他に『晩菊』、『浮雲』など。

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