ブルー・ジャーニー

ブルー・ジャーニー

#14

トルコ ヒュズン(憂愁)〈4〉

文と写真・時見宗和 

Text & Photo by Munekazu TOKIMI

東は東、西は西

 二〇〇六年(平成一八年)、ノーベル文学賞はオルハン・パムクに授与された。トルコ人作家初の授賞だった。

 スウェーデン・アカデミーは授賞式で言った。

「ジョイスのダブリン、ドストエフスキーのサンクトペテルブルク、プルーストのパリ、そしてパムクのイスタブール」

 

bj14_4-02

 

〈幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである〉

 稀代の読書家、アルベルト・マングェルはトルストイの『アンナ・カレリーニナ』の冒頭の見解を、こう言い換えた。

〈幸福な都市はどれもよく似通っているが、憂鬱な都市はそれぞれに憂鬱である〉

 たとえばリスボンの憂鬱はサウダージ(郷愁)、ブルゴスはトリステーザ(悲しみ)、ブエノスアイレスはムーファ(憂鬱)、トリノはメスティーツァ(憂愁)、ウィーンはトラウリヒカイ(哀愁)、アレクサンドリアはアンニュイ(倦怠)。

 そしてパムクのイスタンブールの憂鬱は──アラビア語に由来し、クルアーンに五回登場する──ヒュズン(憂愁)。

〈ヒュズンはイスタンブールにおいて、この地方の音楽的感情であり、詩にとっては基本的な言葉であり、同時に人生観や、精神状態であり、この町をこの町としている物質の作り出したものである〉

 

bj14_4-10

 

 トルコ人は、あざやかな色づかいを好まない。モスクは石の色を生かした鈍い灰色か茶色のどちらかで、おとなが赤や緑を着ることはほとんどいない。

 パムクは言う。

〈(イスタンブールの)モノクロームの雰囲気をよく理解するためには、豊かな西洋の町からイスタンブールに飛行機で来て、すぐに混雑した人ごみに出ていったり、あるいは、冬の日に、町の心臓部であるガラタ橋に出て、人ごみが、みな、はっきりしない、ぼやけた、灰色がかった、影みたいな服装をしているのを見なければならない〉

 

bj14_4-08

 

 五五二年、北アジアのバイカル湖周辺に興った “突厥(とつけつ)”。遊牧民であり技術集団だったトルコ民族の国は、やがてオスマン帝国になって西へ、西へと攻め上がり、一四五三(享徳二年)年五月二九日、一一二〇年あまりつづいたビザンティン帝国の首都、コンスタンティノープル(後のイスタンブール)を征服。さらに拡大をつづけ、最盛期の一六世紀には、西アジアから東ヨーロッパ、北アフリカの三大陸に及ぶ広大な国土を支配した。

 一八五〇年(嘉永三年)、イスタンブールを訪れたフランスの小説家、ギュスターヴ・フローベルは手紙に書いた。

〈一〇〇年後、コンスタンチノポリス(コンスタンティノープル)が、世界の首都になるであろうことを信じる〉

 

bj14_4-03

 

 インカ帝国を滅ぼしたスペインのように、コンキスタドール(征服者)は、財宝を奪い、宗教を奪い、言葉を奪う。

 だが、オスマン帝国はちがった。

 非ムスリムに改宗を強制しなかった。キリスト教ギリシア正教、ユダヤ教、アルメニア教会派の存続を許した。ギリシア正教の総本山、アヤ・ソフィアをモスクに改修したが、ソフィア(ギリシア語で知恵の意)の名前を改めることはなかった。

 言葉を奪うこともなかった。コーラン学校では回教徒の宗教用語であるアラブ語を用いたが、キリスト教徒がギリシア語、アルメニア語、アッシリア語など、それぞれの母国語を教育用語に使うことを認めた。文化教養言語としてはペルシャ語が、商業用語としてはギリシア語が一般的だった。街角では、ルーマニア人はルーマニア語を、ブルガリア人はブルガリア語を、グルジア人はグルジア語を話した。

 なによりコンスタンティノープルという名前を残した。イスタンブールに変えたのは一九二三年(大正一二年)、オロマン・トルコ帝国に代わったトルコ共和国の初代大統領となり、西欧化をめざしたムスタファ=ケマルだった。

 

bj14_4-04

 

 一九世紀末から二〇世紀初頭にかけて、世界は帝国主義に塗りつぶされた。“列強”と呼ばれた六カ国(イギリス、フランス、ロシア、アメリカ、ドイツ、日本)の植民地は、地球の陸地面積の約二分の一、世界人口の三分の一を占めた。

 南アフリカ大陸の先端にイギリスを、マダガスカルにフランスを持ちこみ、どこに行っても、安全で慣れ親しんだ生活環境を手に入れられるようになった列強国は、精神の中に「ここではないどこか」を求め、「エキゾティズム(エキゾティシズム)=異国趣味、異国情緒」に手を伸ばした。

 

bj14_4-13

 

 イスタンブールについてトルコ人が書いたものは、二〇世紀初頭になるまでほとんど存在しなかった。

“景観”は、ただ単にそこにあるものではなく、人間の感受性から生まれるものだとしたドイツの地質学者──ヒトラーに気に入られた偏狭なドイツ人中心主義者でもあった──エヴァルド・バンゼは、一九一五年(大正四年)に『トルコ』を発表した。

〈トルコ! その言葉から連想されるのは回教寺院と棗(なつめ)の木、大草原と砂漠、こんこんと湧く泉とヴェールの女性、水タバコと濃いコーヒー、そして寺院の突塔から聞こえるコーランの祈り、アナトリアの畑に舞い降りるこうのとりの群、…それにきらめく剣とひるがえる星と三日月の旗、戦いに明け暮れる偉大な帝国の歩み、その劇的な勃興と没落の歴史! トルコ! この短い言葉は何と多くのことがらを思い出させることか!〉

 

bj14_4-07

 

 一九〇六年(明治三九年)、ヨルダンで徳富蘆花を乗せた船は、約一週間後、ボスフォラス海峡に舳先を乗り入れた。日本とトルコの正式な外交関係樹立より一九年前の、晴れ渡った日のことだった。

〈夥しき回教寺院の数よ。大泡球、小泡球のかたまれるごとき円屋根を擁して槍のごとく簇立する呼楼、白き一群あり、銀鼠の一群あり、赭白き一群あり。コンスタンチノーブルならでかかる処のあるべしや〉

 

bj14_4-06

 

 金閣湾のもっとも奥のエユップ地区の高台に、ガイドブックにかならずといってよいほど登場する“ラヴィア・カドゥン・カフヴェスィ”がある。旧市街を見渡すこのチャイハネ(喫茶店の一種)は、フランス人の作家ピエール・ロティ(一八五〇~一九二三)が好んで訪れたことから、「ピエール・ロティのチャイハネ」と呼ばれる。

〈おお! イスタンブルよ。わたしを魅惑する様々の名のなかで、これほどの魔力をもつ名はほかにない。この名が唱えられるとたちまち、目の前にひとつ幻が浮上する。とても高いところ、空中のとても高いところ、遙かな虚空に、何かしら巨大なもの、ひとつの比類なき都市のシルエットがぼんやりと見えてくる〉

 海軍仕官として世界各地を航海。行く先々の女性との感傷的な恋愛物語を執筆したロティ。『お菊さん』(一八八七年)は長崎での同棲生活が、『アジヤデ』は一年半のイスタンブール滞在から生まれた。

 とあるハーレムの女性アジヤデ(本名アキジェ)との密会は、金閣湾の波のうえに始まった。

〈アジヤデの小舟は、絹のようになめらかな敷物、トルコのクッションや掛け布などでいっぱいになっている。物憂いオリエントの洗練の極致が、すべてそこに見出された。小舟というより、波間に浮かぶ寝台を見る思いだった〉

 

bj14_4-09

 

 歴史は、フローベルの確信とは正反対の方向に進んだ。

 次第に巨体の維持に苦慮するようになったオスマン・トルコ帝国は、一七世紀から衰退期に入った。一八世紀にはヨーロッパ勢力によって次々と領土を奪われ、国力が激減。第一次世界大戦に参戦したが、破れ、一九二二年(大正一一年)に滅亡した。

  パムクは言う。

〈イスタンブールは二千年の歴史のなかでもっとも弱く、貧しく、さびれ、このうえなく崩壊した日々を生きてきた。オスマン・トルコ帝国の壊滅感、貧困、そして町を覆う崩壊したものが与える憂愁は、生涯、イスタンブールの特徴となった〉

 一四五三年(享徳二年)のできごとは、西の人間にとってはコンスタンチノープルの陥落、東の人間にとってはイスタンブールの征服だった。一九二二年(大正一一年)のできごともまた、「征服」でも「陥落」でもあった。

 西洋の観察者はイスタンブールの西洋にはない「エキゾチックなもの」を好んで書いたが、ヨーロッパから押し寄せる西洋化の波にとって「エキゾチックなもの」は押し流されるべきものでしかなかった。

 

〈「ここでは、全てがなんと年月を経ていることか」という言い方が気に入った」

 ロシア生まれの作家、ヨシフ・ブロッキーが『ニューヨーカー』誌に書いた『ビザンチンからの逃亡』は、パムクの同意を得た、数少ない西洋の記述だった。

〈「古いのではない、古びたのではない、昔風とか流行おくれとかではない、ただ単に年月を経ているのである!」と彼が主張したのは正しかったのだ。オスマン・トルコ帝国が崩壊してなくなると、トルコ共和国はそれが何であるかをも決められなかった自分たちのトルコ人らしさ以外には何も見ず、世界からきりはなされて、イスタンブールは、何ヶ国語も話され、種々の文化のあった、昔のきらびやかな日々を失って、全てがそれぞれにゆっくりと年月を経て、空しい、空虚な、白黒の、ただ一つの声のある、ただ一つの言語の聞かれる場所と化したのであった〉

 

bj14_4-01

 

 イスラムの深海の深みで繰り広げられる九日間を描いたパムクの『わたしの名は赤』。

 一五九一年(天正一九年)の冬、イスタンブール。翌年に控えるイスラム歴千年に向けて、祝賀の書の製作にいそしむ細密画師のひとりが殺された。

「“東も西も、神のものである”」

 物語の終盤、クルアーンの聖句を口にした──この時点ではまだ明らかにされていない──犯人に、主人公のカラが応えて言う。

「でも、東は東、西は西だ」

 

 

(トルコ編・了)

 

 

*本連載は月2回配信(第2週&第4週火曜日)予定です。次回もお楽しみに。

 

 

blue-journey00_writer01

時見宗和(ときみ むねかず)

作家。1955年、神奈川県生まれ。スキー専門誌『月刊スキージャーナル』の編集長を経て独立。主なテーマは人、スポーツ、日常の横木をほんの少し超える旅。著書に『渡部三郎——見はてぬ夢』『神のシュプール』『ただ、自分のために——荻原健司孤高の軌跡』『オールアウト 1996年度早稲田大学ラグビー蹴球部中竹組』『[増補改訂版]オールアウト 1996年度早稲田大学ラグビー 蹴球部中竹組』『魂の在処(共著・中山雅史)』『日本ラグビー凱歌の先へ(編著・日本ラグビー狂会)』他。執筆活動のかたわら、高校ラグビーの指導に携わる。

ノンフィクション単行本 好評発売中!

blue-journey00_book01

日本ラグビー 凱歌の先へ
編著・日本ラグビー狂会

     

ブルー・ジャーニー
バックナンバー

その他のTRAVEL

ページトップへ戻る

ページトップへ戻る