日本一おいしい!沖縄の肉食グルメ旅

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#13

黒豚のきた道

文・普久原朝充

 

アグー豚のルーツを探す

 体軀は黒く荒々しい剛毛に覆われ、怒髪天を突くかの如く逆立っていた。口元からは牙をのぞかせ、じっとこちらを睨みつけるかのようだ。展示室の入口を抜けて直ぐ、対峙したその剥製から暫し目が離せなくなった。今や沖縄のブランド豚となった「アグー」を辿って、名護博物館を訪れたときのことだ。戦後の頭数減少により、一時は絶滅の危機まで至った沖縄の在来豚。その復活の契機のひとつとなったのが、この博物館だった。

 1981年に博物館建設に伴った構想として沖縄の在来家畜の展示を計画し調査した折に、交雑度の低いものでも島内で18頭しか見つからなかった。北部農林高校に保存を依頼し、戻し交配によって戦前の形質まで復元したのが現在のアグー豚だ。

 危機に瀕していた頃の黒豚の剥製を見たくて、オリオンビール工場の隣にあるこの博物館まで足を伸ばした。名護市大川のアグー村にて出会った黒豚は、どこか気恥ずかしそうにしてなかなかこちらを向いてくれなかったので、その剥製の荒ぶった様子に驚いたのだった。

 

okinawa13_01名護博物館

名護博物館外観。博物館詳細はHP参照→http://www.city.nago.okinawa.jp/4/3282.html

 

okinawa13_02こっちを向いてくれないアグー豚

アグー村にて、こっちを向いてくれないアグー豚

 

 豚の色を問われると、つい、白色かピンク色を想像してしまう。ところが、戦前の沖縄では黒毛の豚が一般的だったそうだ。14世紀に中国より到来したとされ、1609年の薩摩侵攻により鹿児島に渡ったとされる。肉食が忌避された日本本土において例外的に鹿児島では受け入れられたようだ。1950年代、東京都中央卸売市場食肉市場が隣接する品川駅前は、鹿児島から貨物列車輸送された黒豚で賑わっていたという。冷蔵技術が発達する以前において、肉の鮮度を保つには、生産地で屠畜して枝肉を輸送するのではなく、生きた状態で輸送するしかない。それまで屠畜場は郊外に位置するのではなく、肉の最大の消費地である都市部にあるのが当然だった。当時は日本本土の都市部でも黒豚を見ることができたのだろう。

 ところが、その旨みを評価されながらも相対的に生産性が低いとされた黒豚は、1960年代になってから、ランドレース種、大ヨークシャー種などの白豚の導入により、市場淘汰されることとなった。交雑時においても、白豚と黒豚では、白色の方が優勢遺伝となるそうだ。鹿児島県では、そういった逆風にもめげず、黒い毛色にこだわった。英国の黒豚であるバークシャー種と交配して品種改良を続け、「かごしま黒豚」という、豚肉としては初めてブランド化の先鞭をつけた。

 

 

『西遊記』の猪八戒は黒豚だった!?

 イノシシの毛色は褐色で、濃淡の差こそあれ、世界中どの種も大きな違いは少ないようである。外敵に見つかりにくいよう目立たない色になっている。家畜化された豚は白(淡桃色)、黒、灰、茶(赤茶色)など、様々な毛色を有し、斑の模様を持つものもいる。

 家畜を選抜した人間側にとっては地域によって好みの色があるようで、戦前の沖縄においても品種改良用に中ヨークシャー種(白豚)とバークシャー種(黒豚)が検討されたが、バークシャー種のみを導入したとの記録がある。白豚は沖縄の気候に耐えられないという認識だったらしい。

 古波蔵保好『料理沖縄物語』(作品社)によれば、白豚を初めて見た沖縄の子どもが「豚のお婆さん」だと勘違いしたという話もあった。豚といえば黒いのが当時の常識だった。

 

 どうやら、その認識は、豚を沖縄へ伝えた中国においても同様だったらしい。太湖豚、民豚、香豚、蔵豚、五指山豚、黄淮黒豚、内江豚、八眉豚等など中国における在来豚も黒豚が多くを占める。豚の毛色にまつわる異名も多い。

 

《毛色でいえば中国では古来、黒毛が多かったのではないか、と思える節がある。その例がブタの異名というか呼び方だ。ブタは財産、即ちお金になることから、「烏金」(黒いお金)と呼ばれていたし、ほかにも「烏鬼」、「烏羊」、「烏将軍」の名でも呼ばれていた。》(『トン考』アートダイジェスト)

 

「井の中の蛙大海を知らず」と同じく、世間知らずな様を意味する「遼東の豕(りょうとうのいのこ)」という故事も興味深い。ある日、遼東半島にて白い頭の豚が生まれた。珍しいので献上しようと上京する道中、江東に差し掛かったところで、白頭の豚が数多く通るのを見て引き返したという逸話だ。逆に、それだけ当時の中国では黒豚が一般的だったとも受け取れる。

 

okinawa13_03『本草綱目』より

明代の1596年に李時珍によって編纂された博物誌『本草綱目』より。黒く塗りつぶされて表現された豚

 

okinawa13_04筆者が中国で見た豚_残念ながら白豚

筆者が中国福建省の農村部を訪れたときに見た豚は、残念ながら白豚だった

 

『西遊記』の登場キャラクターとして有名な猪八戒は白豚として描かれることが多い。意外に思われる人も多いかもしれないが、本来は黒豚だった。たとえば、第十八回の八戒の登場シーンでは次のように描写されている。

 

《その狂風が通りすぎますと、空中から一匹の化けものがおりてきました。なるほど、ひどくみにくいやつです。黒い顔に短い毛がびっしり生えていて、長い口にばかでかい耳。青とも藍ともつかぬ色の木綿の直綴(じきとつ)を着て、柄ものの木綿の手ぬぐいをぶらさげております。》(『西遊記』岩波文庫)

 

 なぜ、白豚という認識になったのだろうか。実は、かなり早い段階から小説の挿絵では白く表現されていたようである。『猪八戒の大冒険』(三省堂)によれば、挿絵において黒ベタで塗りつぶすと表情などの細かな表現ができない。そのため、この愛嬌あるキャラの躍動感を優先して白く表現するようになったのではないかということだった。

 本来、猪八戒は天蓬元帥という天界の住人だったが、酒に酔って女神である嫦娥(じょうが)にセクハラをした罪で下界に追放された。その追われた先が豚の胎内だったことにより、豚の姿で産まれることなる。取経の旅に付き従い五葷三厭※の食を断つよう観音菩薩に諭され、これが元で玄奘三蔵に八戒という法名を与えられる。

 

okinawa13_05猪八戒 『西遊原旨』(1810年)の挿絵より

猪八戒 『西遊原旨』(1810年)の挿絵より

※五葷三厭(ごくんさんえん)

五葷:仏教で食べることを禁止されている臭味のある野菜のこと(ニラ、ニンニク、ラッキョウ、アブラナ、コエンドロ)

三厭:道教で食べることを禁止されている三種(雁、イヌ、ヤツメウナギ)

 

 中国ではどの民族が権力を持つかによって、たびたび食の様式が変化している。元や宋など北方民族が支配する時代には豚肉が食べられる機会が減り、羊肉が食された。豚は、遊牧民の家畜としては不向きであることから敬遠されていた。ある日、豚の悪夢にうなされた元朝最後の皇帝・順帝によって養豚禁止令が出たこともある。中国語において「猪」と「朱」は、同じ発音だということから、後に、明の太祖になった朱元璋に滅ぼされる予兆だったと解釈された。この解釈は、明の武宗・朱厚照の代にも影響する。朱厚照は豚年生まれ(干支の亥は、本来は豚を指す)で、姓と同じ音である豚を屠畜・売買するのは不敬であると禁止令が出たこともあるそうだ。

 実は、猪八戒も影響を被っている。元の時代に刊行された『西遊記』では、朱八戒となっていたらしいが、明の代に現在の名称に落ち着いた。間の抜けたキャラクターの姓と、権力者の姓が同じであることを危惧しての配慮だったと考えられている。

 

 

サツマイモと黒豚

 このように黒豚のきた道を辿っていたのだが、どうも豚の到来を知るだけでは、食文化の理解としては不十分だということが分かってきた。豚の到来は必ずしも豚食文化の到来に結びつかない。どうも肉食文化を考えるとき、家畜の歴史そのものをなぞるだけでは、見えないことがある。

 現代でもたびたび言われることだが、収穫した農作物を家畜の飼料にするより、人間が食べた方がより多くの人々に行き渡るだろう。肉を食べずに農作物だけを食べた方がより効率的であるという論理だ。とりわけ肉食を忌避した中・近世日本の場合、水田稲作は連作障害も生じ難く、単位面積当たりの収穫量も多かったので、これが成り立っていたのだろう。

 だが、人間が食べられない草などを与えて家畜を育てる場合は、非効率ということにはならない。ヨーロッパでは、夏に乾燥し冬に湿潤となる気候により、家畜が食べられないほど茎の硬い雑草は育ち難い。主要な穀物である小麦は米に比べても単位面積あたりの収穫量も少なく、連作障害を起こしやすいことから、栽培後は休耕地として牧草を植え、家畜を放牧して養うのが一般的だった。

 さらに中世になると、一定面積の土地を三分割し、秋まき穀物畑、春まき穀物畑、家畜放牧地を割り当てて一巡させる三圃制農法が生まれた。マメ科の植物にある共生根粒菌の作用によって大気中の窒素を土壌に定着させ地力を回復できることから、休耕地にはクローバーが植えられ、放牧飼料としてカブが一緒に植えられた。農耕と牧畜は固く結びついていたのだ。

 沖縄においても、そのような土地の風土に合う循環した農耕様式が必要だった。田畑を耕すための鋤を引いたり荷を運ぶ役割も果たしてくれる牛や馬などの家畜と異なり、豚は食用以外の用を成さない。人間が消化できない牧草を食べる草食家畜と違って、雑食性の豚は、その飼料も人間の食べ物と競合することが多い。そのため、収穫した農作物を飼料に回す余力のない時代は、なかなか飼養頭数を増やせなかった。

 そんな折、新たな農作物が沖縄に到来する。サツマイモだ。

 

 サツマイモは、伝来当初は蕃藷(ハンス)、甘藷とも呼ばれ、その伝来経路により琉球芋、唐芋などとも呼ばれていた。沖縄へは1605年に野国総管によって中国より持ち込まれ、儀間真常によって栽培法が広められる。その後、金城和最によってサツマイモを年二回収穫する栽培法が確立したのが、ちょうど豚肉食が一般化したとされる十八世紀半ばである。

 それまで田芋、里芋を主食として細々と暮らしていたが、沖縄の悪条件でも多く収穫できる救荒作物の到来によって飢えの心配が減った。サツマイモの皮や蔦などを豚の飼料にすることができるようになり、豚の排泄物をサツマイモ栽培のための肥やしにするという持続可能な循環サイクルが完成するのである。サツマイモの到来によって、安定して豚を飼養することができるようになった。

 

okinawa13_06道の駅かでな_サツマイモ伝来の野国総管の出生地

サツマイモを沖縄に持ち帰った野国総管は嘉手納出身。嘉手納基地を見渡せる「道の駅かでな」の前に銅像が設置されている

 

 このサツマイモ、てっきり、中国原産の作物かと勘違いしていたが、中国の福建省へ到来したのは1594年とされており、それから沖縄に伝わるまで10年にも満たないことを知った。遡ると、古くは中南米が原産地だった。

『コロンブス航海誌』によれば、1492年11月4日《この地の住人は非常におとなしく、しかも臆病で、すでにのべましたように裸で歩いております。武器も持っていなければ、法律を定めているわけでもありません。土地はきわめて肥沃であり、にんじんのようで、しかも、栗のような味のするニアメスがたくさんあります。》と記されており、《これはアヘス又はバタタのことである》と訳者により注記されている。

 これがヨーロッパとサツマイモの出会いである。この時、コロンブスによって持ち帰られるが、ヨーロッパで広まることはなかった。それからアジアに伝わる経路としては三つが提案されている。ポルトガル人がアフリカ経由で伝えたバタタ・ルート、スペイン人がメキシコより植民地であったフィリピンへ運んだカモテ・ルート、大航海時代以前に南米から南太平洋の島々を通じて渡ったクマラ・ルートだ。

 実際、モアイ像などで有名なイースター島ではサツマイモが主食になっていたりするので、クマラ・ルートは魅力的な仮説だが、他の二つの経路に比べると可能性は低いそうである。コロンブスが見い出してから、交通の発達していない時代に100年あまりで地球の反対側まで伝わったことになる。(ちなみに、アメリカ大陸発祥で唐瘡、琉球瘡とも呼ばれ、人類を苦しませた梅毒は、より早く、わずか20年で日本に伝来している)

 

 同じように海を渡った中南米原産作物で、ヨーロッパ人を飢餓から救った救荒作物にジャガイモがある。南米においてサツマイモは標高2000メートル以下の低地に生育するが、ジャガイモは3000メートル以上の高冷地に適していた。そのためか、麦栽培の困難な高緯度地域でも栽培することに適応し、ドイツやアイルランドなどでは国民食となった。

 それまでのヨーロッパの豚は、飼料が底をつく冬の前に種豚だけを残して塩漬けにしていたが、ジャガイモ栽培が広まることで、越冬のための飼料を確保することが可能となり、季節を問わず、新鮮な肉を食べることができるようになった。

 

 今となっては食べる行為には、味わいや語らいなど、食欲を満たす以外の様々な楽しみが付随しており、その生産過程を知ることなく興じることもできる。しかし、近代以前の人類にとって食べるとは、生きることそのものだった。『食の人類史』(中公新書)によれば、人類の歴史は、主要な必須栄養素である糖質とタンパク質のパッケージをどのように調達、生産し、確保するかという苦労の連続だったことがわかる。そこでは、「米と魚」のパッケージの東洋と、「麦とミルク」のパッケージの西洋に大きく分けて論じられている。

 大航海時代の農作物の大移動によって、農耕が大きく変化した。「麦とミルク」が、「ジャガイモとミルク」に変わった地域もあるように、沖縄も「サツマイモと黒豚」のパッケージに変化したといえるだろう。この組み合わせは鹿児島まで伝わり、「かごしま黒豚」は、今でも主要な飼料としてサツマイモを与えていることをその特徴としている。

 

 サツマイモの種子島伝来が1698年、鹿児島本土は1705年とされている。黒豚と同じく1609年の薩琉戦争時に伝来しそうなものだが、なぜか直ぐは鹿児島で受け入れられなかったようだ。その後、1735年には、江戸においても救荒作物として認知され、青木昆陽によって全国に広められることとなる。その際に、サツマイモの名称で定着することとなった。サツマイモは、寒冷地での栽培には適さなかったので、主に西日本で栽培された。

 

 生産効率の良い水田稲作に、農耕が偏っていた日本において、人々はたびたび飢饉に苦しんでいる。1732年の享保飢饉では百万人、1782年の天明飢饉では百十一万人、1833〜1836年の天保飢饉では二十九万人の死者が出たとされるが、サツマイモの栽培に適した地域での餓死者は減少し、人口が増加した。明治維新を推進した薩摩、長州、土佐、肥前の四藩は、いずれもサツマイモの常食率が高く、安定した食料体制の基盤を築けたことが、維新の原動力となったと考えられている。その原動力の陰には黒豚もいたのではないだろうかと想うと興味が尽きない。

 

okinawa13_07道の駅かでな_騒音計とサツマイモのゆるキャラいもっち

「道の駅かでな」にて。サツマイモのゆるキャラ「いもっち」と一緒に設置されていたのは騒音計だった

 

 

島豚の復活

 第二次世界大戦後、沖縄の黒豚は衰退した。戦争によって、頭数が減少したことも大きかったが、1960年代になり、短期間で成長する白色の大型品種を導入した多頭飼育型の畜産体制へと変化したことが追い討ちとなる。那覇市辻町の遊郭ですら豚を飼っていた時代があったように(本連載#02ウシマチサガイを歩く参照)、それまでの沖縄の各家庭では兼業で1~2頭程度の豚を飼っていることは珍しくなかった。しかし、そのような牧歌的な豚の飼い方では、生計を立てられなくなり、専業化と多頭飼育化が求められて郊外に畜産団地が形成されることになった。

 その多頭飼育化を支える農作物は、またまた中南米原産で、コロンブスによって見い出されたトウモロコシだ。化学肥料の発明によって、収穫量が飛躍的に伸びたトウモロコシを飼料にするまでになった。この濃厚飼料の登場によって、芋を豚の飼料にし、豚の排泄物を芋畑の肥料にする循環サイクルは途絶えることとなった。豚の排泄物が行き場を失うこととなり、その結果として起こったのが悪臭問題だった。

 ここでは、悪臭が原因で排斥された訳ではなく、郊外で飼われるようになってから悪臭が問題視されたという順序が興味深い。『沖縄の人とブタ』(京都大学学術出版会)では、身近に豚がいた時代には問題視されず、むしろ、生活空間から豚がいなくなったことによって悪臭の概念が形成されたと読み解いている。このことによって、沖縄の豚は、食文化的には好意的に語られる一方で、においによって排斥される両義的な存在になってしまった。

 

okinawa13_08沖縄の仲村家住宅のウヮーフール(豚便所)

北中城村の国指定重要文化財「中村家住宅」のウヮーフール(豚小屋兼便所)

 

 沖縄の郷土月刊誌『青い海』1980年7月号にて豚の特集が組まれている。「島豚生産に情熱を傾ける―名護宏明さん」という記事には次のように書かれていた。

 

《現在では、ほとんど見られなくなった島豚。その島豚が、わずかながら具志川市に健在であった。とは言っても、純粋の島豚は、いまや絶滅したと言われ、ここでいう島豚は、純型に近いものである。(中略)南部の農家で見つけた島豚の雑種を手始めに、三年がかりで戻し交配を続け、原型に近い島豚の生産に成功したというもの。》

 

 アグーという名称が使われていなかったことと、毛が黒いということについて全く書かれていなかったので、当初、読み飛ばしてしまっていた。名護博物館の在来種保存計画以前の、その後のアグー復活に繋がる記事だった。

 1976年11月12日付の沖縄タイムス記事「絶滅寸前の在来豚/種族保存に打ち込む/見直される“シマーグヮー”」も同様に一番の特徴である色についての記述はなかった。当時の記者にとっては、豚が黒いのはあたりまえ過ぎて書くほどのことではなかったのだろうか。

 自明視されている日常は語りづらい。それが失われてはじめて振り返られ、その価値を再認識させられることがある。黒豚をたどりつつ、そんなことを考えさせられた。

 

 

*参考文献:

小松かおり『沖縄の市場<マチグヮー>文化誌』(ボーダーインク)

平川宗隆『復活のアグー』(ボーダーインク)

古波蔵保好『料理沖縄物語』(作品社)

比嘉理麻『沖縄の人とブタ』(京都大学学術出版会)

沖縄の郷土月刊誌『青い海』1980年7月号

『新沖縄文学』54号「特集 食の文化史」(沖縄タイムス社)

宮路直人『かごしま黒豚物語』(南日本新聞社)

田中智夫『ブタの動物学』(東京大学出版会)

武田雅哉『猪八戒の大冒険』(三省堂)

とんじ+けんじ『トン考』(アートダイジェスト)

『西遊記』(岩波文庫)

鯖田豊之『肉食の思想』(中公新書)

北岡正三郎『物語 食の文化』(中公新書)

佐藤洋一郎『食の人類史』(中公新書)

『コロンブス航海誌』(岩波文庫)

鵜飼保雄 大澤良 編『品種改良の世界史ーー作物編』(悠書館)

池部誠『野菜探険隊アジア大陸縦横無尽』(文藝春秋)

酒井伸雄『文明を変えた食物たち』(NHK出版)

比嘉武吉『甘藷の文化誌』(榕樹書林)

金城鉄男『沖縄 甘藷ものがたり』(農山漁村文化協会)

 

 

*本連載は、仲村清司、藤井誠二、普久原朝充の3人が交代で執筆します。記事は月2回(第1週&第3週木曜日)配信予定です。次回もお楽しみに!

 

*本連載の前シリーズ『爆笑鼎談 沖縄ホルモン迷走紀行』のバックナンバーは、 双葉社WEBマガジン『カラフル』でお読みいただけます。

 

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仲村清司(なかむら きよし)

作家、沖縄大学客員教授。1958年、大阪市生まれのウチナーンチュ二世。1996年、那覇市に移住。著書に『本音の沖縄問題』『本音で語る沖縄史』『島猫と歩く那覇スージぐゎー』『沖縄学』『ほんとうは怖い沖縄』『沖縄うまいもん図鑑』、共著に『これが沖縄の生きる道』『沖縄のハ・テ・ナ!?』など多数。現在「沖縄の昭和食」について調査中。

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藤井誠二(ふじい せいじ)

ノンフィクションライター。1965年、愛知県生まれ。8年ほど前から沖縄と東京の往復生活を送っている。『人を殺してみたかった』『体罰はなぜなくならないのか』『アフター・ザ・クライム』など著書や対談本多数。「漫画アクション」連載のホルモン食べ歩きコラムは『三ツ星人生ホルモン』『一生に一度は喰いたいホルモン』の2冊にまとめた。沖縄の壊滅しつつある売買春街の戦後史と内実を描いたノンフィクション作品『沖縄アンダーグラウンド』を2016年内に刊行予定。

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普久原朝充(ふくはら ときみつ)

建築士。1979年、沖縄県那覇市生まれ。アトリエNOA、クロトンなどの県内の設計事務所を転々としつつ、設計・監理などの実務に従事している。街歩き、読書、写真などの趣味の延長で、戦後の沖縄の都市の変遷などを調べている。最近、仲村と藤井との付き合いの中で沖縄の伝統的な豚食文化に疑問を持ち、あらためて沖縄の食文化を学び直している。

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島猫と歩く那覇スージぐゎー

著・仲村清司

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