越えて国境、迷ってアジア

越えて国境、迷ってアジア

#104

荒川を越えて東京から埼玉へ歩く

文と写真・室橋裕和

 東京北部から埼玉へ。両エリアの境界となっている荒川沿いには、かつての渡し船の跡地があり、奇妙な県境ラインがある。そして荒川から北上して「西川口漢族自治区」まで足を延ばし、半日たっぷりと境界線を遊ぶ。


 

通行手形は不要です 

『翔んで埼玉』によれば、ここは国境の川である。
 東京と埼玉を分かつ、荒川だ。いま僕が立っている板橋区の北端から、荒川を渡った対岸が修羅の国・埼玉である。
 とはいえ、埼玉県民の通行手形をチェックする関所があるわけでもない。荒川のこっちも向こうも特徴の薄い住宅街が広がっていて、なにが変わるというわけでもない。しかし両者の間には、ぬぐいがたい意識の壁があることを、埼玉に実家を持つ僕は知っている。都民はなんとも思わなくても、我々埼玉人はどこかこの川の向こうをかすかなコンプレックスとともに見上げてしまうものなのである。

 

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荒川の向こう側は埼玉県。両岸には広大な河川敷が広がっている

 

江戸時代には船で荒川を渡った 

 江戸の昔もやはり、荒川を越えることは特別な意味を持っていたようだ。江戸市中を出発して中山道を歩き、第一の宿場町である板橋宿を過ぎると、この荒川にぶつかる。江戸と、外界を隔てる境界でもあったし、また防衛の要でもあった。だから橋はかけられておらず、船で渡河した。
 そんな船着場のひとつが「戸田の渡し」だ。いまもその跡地が、荒川の南の東京・板橋区と、その対岸、埼玉・戸田市に残されている。幕末には13艘の船がひっきりなしに行き来する交通の要衝となっていて、その頃はむしろ埼玉側の戸田のほうが発展していたらしい。荒川を使った産品の輸送もさかんで、戸田の渡しのそばには市場も設置され、ずいぶん賑わったようだ。
 そんな渡船場の跡に碑が建てられ、キッチリ説明ボードまで設置されている細かさが、日本の街歩きの楽しさだろう。

 

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戸田の渡しの跡地を示す碑が、河川敷の中に埋もれるように立っていた

 

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戸田の渡し跡地にて。往時の様子を描いた絵があった

 

埼玉が東京領を侵略!? 

「戸田の渡し」跡地から東へ、荒川沿いに歩いて行く。南岸の東京サイドだ。板橋区と北区の境界線あたりなのだが、ふしぎな場所がある。広大な河川敷の一角だ。公園や運動場や、さらにはゴルフ場まであるほどの広さで、ジョガーが行きかっている。
 そんな場所で立ち止まってグーグルマップを見てみると、あろうことか埼玉が侵食してきているのである。荒川のこちら側まで、埼玉領と表示されているのだ。地図のミスではないかと思ったが、ほかのアプリなどでも同様だ。荒川を越えて埼玉がはみだし、東京を侵犯しているのであった。
 現在、東京に住む埼玉県人としては、腹立たしいような痛快なような複雑な気分だが、同じような場所はこのあたりにいくつかある。川という自然の境界を行政区分としたほうがなにかと都合がいいようにも思うが、荒川の南の板橋区や北区に、埼玉県が食い込んでしまっている。

 

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地図でいうとこの赤丸のあたり。埼玉が荒川を越えて東京側に食い込んでいる

 

暴れ川を鎮める治水工事の影響 

 その理由は荒川そのものにあった。かつてはもっと蛇行していた暴れ川だったのだそうだ。だから江戸時代から堤防をつくったり、蛇行部分を直線化する工事が繰り返されてきた。
 それでも1910年(明治43年)には、長雨と台風によって荒川は大氾濫を起こす。大きな被害が出たことから、荒川放水路を整備し、護岸工事をさらに進めたのだが、その結果として流路がいくらか変わった。しかし東京・埼玉県境は工事前の荒川の流れをもとに設定されていて、工事後も変更されることはなかった。この奇妙な県境は、かつての荒川の姿なのだ。
 JR浮間舟渡駅のそばには半島のように埼玉領が突き出た場所があるが、ここも同様で蛇行の跡。大正時代から直線化工事が進められ、切り離された川の一部が浮間ヶ池となり、いまは自然公園として親しまれている。
 ちなみにこの浮間ヶ池は、北区と板橋区の区境ともなっている。埼玉県とふたつの区にまたがる公園として、釣り人だけでなく僕のような越境マニアがこっそり訪れる場所になっているらしい。

 

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昔は荒川の一部だったが、切り離されていまは浮間ヶ池となっている

 

江戸と日光東照宮とを結ぶ道 

 新荒川大橋のたもとにも、かつての「渡し」の跡地がある。岩淵の渡船場だ。いまではやはり、河川敷に野球場やサイクリングコースが広がり、当時の面影はない。跡地を伝える看板が立つばかりだ。
 ここを通っていたのは日光御成道だった。徳川家康が祀られている、日光東照宮に至る道だ。江戸の本郷追分(現在の東京大学農学部あたり)で中山道と分岐し、この荒川に至る。歴代の徳川将軍が通行するときには、100メートル以上にもなる仮設の橋がかけられたという。
 現在は道路と鉄道の巨大な橋が架かっている。歩行者も通行できるので、僕も橋を渡り埼玉県へと入る。そして少し歩けば、かつての川口宿、現在の川口市中心部に至るというわけだ。
 この地域はいまでこそ北区・板橋区に埼玉県川口と、あまり脚光を浴びるエリアではないかもしれないが、その昔は中山道と日光御成道、ふたつの大きな街道を抱え交通と商業とが栄えた場所だったのだ。

 

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新荒川大橋の東京側から埼玉県を望む。このあたりも一部で埼玉側の領土が川を越えてはみだしている

 

パスポートの要らない中国へ 

 せっかく川口まで来たのだ。ホンモノの国境を越えてみよう。京浜東北線でひと駅、西川口は、中国人が急増している街として知られている。ほかにも中東系やベトナム人、タイ人なども多い多国籍集住タウンだ。
 西口を出れば、いかにも都下のベッドタウン的な街並みの中に、難しい中国語の看板がちらほらと混じる。中国東北部を中心としたレストランがいくつもあるのだ。中にはザリガニの専門店だとか、ウイグル料理など、なかなか珍しい店もあるし、街にいくつもある中華系の食材店に入ればそこはもう中華ワールド。生簀で種類不明のなんだかわからないサカナが泳ぐ生鮮コーナー、八角の香りぷんぷんの調味料エリア、野菜やお菓子などなど現地のものはなんでも揃う。ここは近隣に住む中国人たちの生活の街なのだ。そこが横浜中華街あたりとだいぶ違う。だから観光客向けではない、ガチの中華料理も食べられるというわけだ。
「西川口漢族自治区」なんて呼ばれてもいるが、住んでいるのは大半がごく普通のサラリーマンである。留学を経て日本企業に就職した人々で、IT関連が多い。世間では「中華の魔窟」と思われているフシもあるが、暗黒面はあまり見当たらない。日本の街並みと、中国の雑然とした下町が溶け込んだような街並みだ。
 もともと西川口といえば歓楽街で知られていた地だ。しかし2004年頃から始まった警察の浄化作戦によって摘発が進み、結果として街はいっとき寂れた。店舗もマンションも空き部屋が増えたという。そこに中国人たちが入っていった。
 その理由はきわめて合理的である。中国人の多くは都内に勤務している。家族連れが多い。となると、東京都内で暮らすには、家賃がけっこうかかる。それなら東京にこだわらず、埼玉でもいいじゃないか。荒川を越えれば物価はずいぶん安くなる。とくに西川口は歓楽街だったというイメージからか、家賃が手ごろのようだ。その割に池袋や上野にも出やすい……こんないきさつで、西川口に中国人が増えていったと言われる。
 江戸時代の街道整備から、昭和の荒川改修工事、さらには平成の中国人増加と、東京・埼玉県境の移り変わりを半日間でたっぷり堪能できるルート、コロナでどこにも行けない越境ファンにはおすすめだ。

 

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西川口には読めない漢字の看板がたくさん。日本語はよく通じるので探検してみよう

 

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中華系食材店の内部はほとんど中国の生鮮市場

 

*国境の場所は、こちらの地図をご参照ください。→「越えて国境、迷ってアジア」

 

*本連載は月2回(第2週&第4週水曜日)配信予定です。次回もお楽しみに!

 

 

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室橋裕和(むろはし ひろかず)

1974年生まれ。週刊誌記者を経てタイに移住。現地発日本語情報誌『Gダイアリー』『アジアの雑誌』デスクを務め、10年に渡りタイ及び周辺国を取材する。帰国後はアジア専門のライター、編集者として活動。「アジアに生きる日本人」「日本に生きるアジア人」をテーマとしている。おもな著書は『日本の異国』(晶文社)、『海外暮らし最強ナビ・アジア編』(辰巳出版)、『おとなの青春旅行』(講談社現代新書)。

 

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