ブルー・ジャーニー

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#103

アルゼンチン はるかなる国〈22〉

文と写真・時見宗和 

Text & Photo by Munekazu TOKIMI

「冬、アンデスは、人間を帰してはくれない」

 ──私の出発は差し迫っていた。山脈では雪がふりはじめようとしていた。しかもアンデス山脈は一筋縄でいく相手ではなかったのだ。私の友人たちは毎日のように道を調査した。道と言っても、それは言葉のうえだけだ。実際には、腐植土と雪のためにずっとまえから消えている人の通った跡をたずねて踏査することだったのだ。(『ネルーダ回想録』パブロ・ネルーダ)

 

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 1945年、ネルーダは共産党に入党。翌年の大統領選挙でキャンペーンを仕切り、左翼共同戦線のゴンサレス・ヴィデラを当選させたが、大統領になったヴィデラは仮面をかなぐり捨て、アメリカ合衆国と結託。さらに共産主義者への弾圧をはじめた。ネルーダは「私は告発する」という演説で裏切り者のヴィデラを弾劾、その報復として逮捕状が発令された。捕まれば刑期は541日、「表向きは」という但し書き付きの数字だった。

 1948年2月、ネルーダは4人の同志と船で湖を渡り、国境警備隊でさえ入ろうとしないアンデス山脈山中に入った。馬に乗るのは子どものとき以来だった。

 

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 ──ときどき、われわれはごくかすかな人の通った跡をたどって行った。たぶん密輸入者たちか逃亡するふつうの犯罪人たちの残したものだ。そして彼らの多くが突如として冬の氷の手に襲われて恐るべき大吹雪のなかで息絶えたのかどうか、それはわれわれには分からなかったが、アンデス山脈の大吹雪は、ひとたび猛威を振るえば、旅人を包み込み純白の七階のしたに沈めるのだ。(略)私は一度ならず馬から振り落とされて岩のうえに転がった。私の馬は鼻や脚から血を出した。だが、われわれは、広い道、輝く道、困難な道を、あくまで頑固に進み続けた。

 

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 南北7500キロ、幅750キロ。世界最長の褶曲山脈、アンデス山脈。ベネズエラ、コロンビア、エクアドル、ペルー、ボリビア、アルゼンチン、チリの7カ国にまたがる。平均海抜高度約4000メートル、最高峰は6960メートルのアコンカグア山(一説には7021メートル)。6000メートルを超える高峰を20座以上抱くこの山脈はまだ成長の過程にある。静かに、しかし激しい力で、いまも上へ上へと押し上げられている。(ちなみにヨーロッパアルプスの最高峰はモンブランの4810メートル)

 

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 ──たとえ、どんなにそれが小さかろうと、ぼくらが自分たちの役割を認識したとき、はじめてぼくらは、幸福になりうる。(『人間の土地』サンテグジュベリ)

 

 1960年、35歳のとき、ゲバラは小型飛行機を操縦するようになった。翼に乗って思い浮かべたのは、パイロットで小説家、そして哲学者だったサンテグジュベリ(フランス)のことだった。

 

 ──まもなく大気のなかにわずかな粉雪が混ざりはじめた。粉雪は舞い上がり、ゆるやかに漂って、薄いヴェールのように雪の山肌に添った。この状況でペルランは、万一のときの退路を確保しておこうと背後をふりむき、思わず総毛だった。いまやアンデス全山がふつふつと発酵して見えたからである。「これはだめだ」。前方の山頂から雪が噴き上がった。雪の火山が噴火したのだ。つづいて右手の山頂からもいまやすべての山頂がつぎつぎと、目には見えない何者かが駆け抜けながら手で触れたかのように順に燃え上がっていく。(『夜間飛行』サンテグジュベリ)

 

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 1900年6月29日、アントワーヌ・ド・サンテグジュベリは伯爵家の第3子としてリヨン(フランス)に生まれた。

 20歳のときに民間飛行免許を、翌年、軍用機飛行免許を取得。

 1926年、民間航空企業ラテコエール社(のちのアエロポスタ社)に入社し、郵便を運ぶ路線パイロットとなった。

 戦争が終わり、ヨーロッパ各国は、軍用機を再利用するために郵便飛行にいっせいに着手。嵐の日に空中戦は行われなかったが、郵便飛行はそうはいかなかった。鉄道や自動車に勝つためには、悪天候でも夜でも飛ばなければならなかった。ナビゲーションシステムなどなかったから、たとえばフランスは路線の開拓と維持と引き替えに100人以上の命を失うことになった。

 

2206

 

 いくつかの路線を確保したサンテグジュベリは、1929年、アエロボスタ・アルヘンティーナの営業主任としてアルゼンチン・ブエノスアイレスに赴任。僚友、メルモス、ギヨメたちと再会した。

 夜のアンデス山脈に橋を架けたのはメルモスだった。与えられた飛行機は上昇限度5200メートル。相手の力量がまったくわからないまま勝負を挑み、高度約4000メートルの絶壁に囲まれた盆地に不時着。幸運と奇跡という揚力に導かれ、生還した。

 ブエノスアイレス赴任の翌年、メルモスが切りひらいたルートを確立したギヨメが行方不明になった。22回目のアンデス越えの途中だった。

 捜査に飛び立ったサンテグジュベリが絶望を味わうまでそれほど時間は必要なかった。『100の編隊か、百年間ぶっつづけにとんでみたところで、7000メートルにも達する高峰を含むこの巨大な山岳地帯を探しつくすことはできないだろう』

「あの山腹を捜査するのはご免だ」。いつもは5フランで犯罪を請け負う山賊が即答した。「冬、アンデスは、人間を帰してはくれない」

 チリの陸軍はサンテグジュベリに忠告した。「たとえ墜落のとき、生命は助かっていたとしても、夜の冷気には絶えられなかったはずだ。なにしろあの高山では、夜が人間を包んだかと思うと、とたんに氷に変えてしまうのだから」

 7日目、サンテグジュベリが捜査の合間に昼食ととっていると、ひとりの男がドアを開け、さけんだ。「ギヨメが生きている!」

 嵐に見舞われたパタゴニア便の約10時間を描いた『夜間飛行』はこうした経験を通して書かれた。(アンデス越えを367回成功させたギヨメは第2次世界大戦初期、撃墜された)

 アンドレ・ジッドは原作初版のために書き下ろした序文のなかで、こう述べている。

「サンテグジュベリが語るすべてのことは『とことん知り抜いたうえで』語られている」

 

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 ──一軒の見捨てられた掘っ立て小屋が国境に来たことをわれわれに示してくれた。私はもう自由だった。私は小屋の壁にこう書いた。「さらば、いずれまた、私の祖国よ。私は行く。だが、おまえもいっしょに連れて行く」

 

 アンデス越えを果たしたネルーダは、ゲバラが母親にその美しさを手紙で伝えたサン・マルティン・ロスアンデスで、待っていた同志と合流する。

 

 ──10分後には、われわれは無限のパンパを走っていた。そして昼夜兼行で走り続けた。アルゼンチン人たちはときどき車を止めてマテ茶をいれたが、われわれはすぐにまたあの果てしない単調さを横切り続けた。

 

 高度90メートルからの墜落事故、溺死寸前に追い込まれた水没事故、リビア砂漠に不時着、5日間200キロの彷徨。5度目の事故による脳しんとう、頭蓋骨骨折、四肢骨折。数々のアクシデントに見舞われながら、それでも操縦桿を離さなかったサンテグジュベリは、1944年7月31日、フランス解放戦争に従軍中、消息を絶った。いくつかの証言から、ドイツ空軍に撃墜されたという説が有力視されている。享年44。

 半世紀後、地中海マルセイユ沖で、サンテグジュベリ夫人の名前と『星の王子様』を発行した出版社の名前が刻まれた銀のブレスレットが引き上げられた。

 

 ブエノスアイレスに着いたネルーダはラ・プラタ川を渡ってウルグアイ・モンテネグロに入り、グアテマラの小説家になりすましてフランス・パリへ飛び、パブロ・ピカソの歓迎を受けた。

「この情報はまちがいだ」。新聞を見たチリ政府は宣言した。「パリにいるのはパブロ・ネルーダに瓜二つの人間だ。本物はチリにいて、ぴったりと追跡されている。逮捕は時間の問題にすぎない」

 

(つづく)

 

*本連載は月2回配信(第2週&第4週火曜日)予定です。次回もお楽しみに。

 

 

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時見宗和(ときみ むねかず)

作家。1955年、神奈川県生まれ。スキー専門誌『月刊スキージャーナル』の編集長を経て独立。主なテーマは人、スポーツ、日常の横木をほんの少し超える旅。著書に『渡部三郎——見はてぬ夢』『神のシュプール』『ただ、自分のために——荻原健司孤高の軌跡』『オールアウト 1996年度早稲田大学ラグビー蹴球部中竹組』『[増補改訂版]オールアウト 1996年度早稲田大学ラグビー 蹴球部中竹組』『オールアウト 楕円の奇蹟、情熱の軌跡 』『魂の在処(共著・中山雅史)』『ジュビロ磐田、挑戦の血統(サックスブルー)』、共著に『日本ラグビー凱歌の先へ(編著・日本ラグビー狂会)』他。執筆活動のかたわら、高校ラグビーの指導に携わる。

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