三等旅行記

三等旅行記

#10

枕や毛布を借りるのはエトランゼだけ

文・神谷仁

スープを貰ってすってゐたら、ふいに涙が出て困りました

 

 

 

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< 6信 >

西比利亜の寒気は、何か情熱的ではあります。列車が停るたび、片栗粉のやうにギシギシした雪を踏んで、ぶらぶら歩くのですか、皆毛皮裏の外套を着込んで、足にはラシャ地で製つた長靴をはいてゐます。
 鉄の棒にでも、一寸手をふれれば痛い感じがします。長く握つてゐると手が凍りつくとボーイが教へてくれました。
 此度で一等楽しみで、プロレタリヤ的なのは、お湯が、駅々で只で貰へた事です。大きい駅に着く度に、「ハヤツサア、チャイ?」さう云つて、ボーイが私のヤカンをさげて湯を貰つて来てくれます。砂糖は私が寄附して、いつもボーイの部屋で四五人、大きな事を云ひながら飲むのです。勿論紅茶も時々は持つて行きました。煙草はみんな新聞紙に巻いて呑んでゐるやうでした。
 鰊くさい漁師が一人ゐて、ヤポンスキーの函館はよく知つてゐると云つて、日本を説明するのでせう。盛にゲイシャ、チブチブチブ……と云ふのです。そのチブチブが解らなかつたのですが、あとで笑つてしまひました。チブチブと云ふのはゲイシャの下駄の音の形容なのです。私が、カラカラ……と云つて見せると、さうだと云つて、又、皆に説明するのです。何の事はない信州路行く汽車の三等と少しも変りがありません。

 十八日の夜。オムスクと云ふ所から、赤ん坊を連れた女が部屋に乗りました。うらなりみたいな若いお母さんでしたが、此子供はまるで人形です。人見知りしないで、すぐ私のベッドへ来て、キャッキャッと喜んでゐました。ワーリャと云ふ子です。此ワーリャは可愛かつたのですが、ワーリャの母親は、一々物を呉れ呉れと云つて嫌でした。私は、三ケ月と云ふ日本の安い眉墨を持つてゐたのですが、「お前は巴里へ行けば買へるんだから、それを呉れ」と云ふのです。外の者ならパリーにもあるでせうが、娘の頃から使ひつけてゐるもので、何としてもやる訳にゆかず、「あんたの髪の毛はブロンドぢやないか、眉だけは真黒いのをつけてをかしいよ、ホラ私の髪の毛と眉は黒いから、これをつけるのだ」さう何度云ひ聞かしても、如何にも舌打ちして欲しいげなのです。恨みがかゝつてはおそろしいと、半分引き破つて呉れてしまひました。
 日本では舌を鳴らすと、チエッとか何とかの嫌な意味ですが、露西亜では、ホーウとか何とか、いゝ場合の意味らしい。ーーワーリャはよたよた歩いてきて、私の頬へ唇をさしよせて来ます。

 時々、隣室のゲルマンスキーがレコードをかけます。寒い一眸の野を走る汽車の上で、音楽を聞いたせゐか、涙があふれて仕様がありませんでした。ロシヤ人と云ふ人種は、いつたいに音楽が好きなのでせう。トロイカと云ふ映画を御覧になりましたか。タンゴなぞは禁止されてゐると云つても走つてゐる汽車の中です。やるせなげな唄を耳にします。窓外は、あの映画に出て来る馬橇が走つてゐます。此ゲルマンスキーの、レコードが鳴り出しますと、まるで蜂の巣のやうに扉があいて、ゲルマンスキーの部屋の前に集ります。皆の顔が生々して来ます。実際音楽が好きなのでせう。


 ところで前の食堂の話なのですけれど、半年ばかり前までは、強制的に食事費を取られてゐたと云ふ話でしたが、私の時は、食べても食べなくても良かつたので、大変楽でした。
 隣室のピエルミ氏は、毎日詩集のやうなものを読んでゐます。ゴルキーやチエホフや、トルストイや、ゴーゴリなんぞ読んだ事があると云つたら、ピエルミ氏は、お前にロシヤ語が話せればもつと面白い事が出来るのにとくやしがつてくれました。ところで、或時ピエルミ氏に、「あの食堂はブルジョワレストランぢやないか」さう聞いた事があります。で、私の部屋にいつもパンを貰ひに来る、まるで乞食みたいにずるいピオニールの事を話しました。
「なぜ、食堂で飯をあたへないのでせう」
 ピエルミ氏は、子供つぽく笑つて、わからないと云ひました。実さい、一二度の事ならば、何でもないのですが、私が食べる頃を見計らつては、「ヤポンスキーマドマゼール、ブーリキ」なんぞと云つて、腹をおさへて悲しげにしてみせます。私は、もう苦味《*にが》い葡萄酒でも呑むより仕方がない。岩のやうになつたパンと、林檎を持つて行かせて怒つた顔をしてみせました。私の食料品も、おほかたは人にやつてばかりで、レモン一個と砂糖と、茶と、するめが残つたきりです。十九日は、また昼食を註文して今度はミンスク氏と並びました。スープ(大根のやうなのに人参少し)それに、うどん粉の酸つぱいのや(すゐとんに酢をかけたやうなもの)蕎麦の実に鶏の骨少し、そんなものでした。昼食に出るまでは楽しく空想して、それで食べてしまふと、落胆してしまふのです。十九日の夜は、借りた枕や、シーツと毛布代を、六ルーブル払ひました。毛布と云つても、一枚の布と云つた方がいゝ程な古ぼけた柿色の毛布です。手荷物を嫌がらない人だつたら、ハルピンあたりで二枚も毛布を買つた方が長く使へるでせう。枕や毛布を借りるのはエトランゼだけで、私の隣人達は、枕から毛布、ヤカンまで持つて乗り込んで来ます。背負つた荷物の中から、かうした世帯道具が出るのは、三等車でなければ見られない図でせう。夜は、ボーイの部屋でスープをご馳走になりました。スープと云つても塩汁です。大変うまかつた。ピオニールも呼んでわけてやりました。ボーイは、私が泣いてゐるので、どうしたのか、「トウキョウ。ママパパ」恋ひしいかと云ふのでせう。私はスープを貰つてすゝつてゐたら、ふいに涙が出て困りました。乗客達は、私が小さいので、十七八の少女だとでも思つてゐるのでせう。それはそれはロシヤ人は、フランス人よりのつぽです。私は、此ボーイにニュームのコップと、レモンと残つた砂糖と、ヤカンと、茶を、モスコーへ着いたら遣る約束をしました。家には湯わかしがボロボロだと云ふのです。ロシヤは、どうして機械工業ばかり手にかけて、内輪の物資を豊かにしないのでせうか、悪く云えば、三等列車のプロレタリヤは皆、ガツガツ飢ゑてゐるやうでした。

 

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<解説>


 当時、海外旅行をする人にとっては、食事をどうするかは大きな問題だった。特に、現在でいうところのバックパッカーのような旅をしている芙美子にとっては毎日の食事をどうするかは切実な問題だっただろう。
 もちろんシベリア鉄道には、食堂車もあった。しかし、図版1のようにソヴィエト鉄道内での朝食は1ルーブル25カペイカ、夕食は2ルーブル、昭和4年発行の『西伯利経由欧洲旅行案内』(発行:鉄道省)によれば当時のレート1円が1.1ルーブルくらいとなっている。当時の小学校教員の初任給5円50銭、現在の小学校教員の初任給を調べて見ると約20万円ほどと考えると、食堂車をつかうことはかなりの贅沢だったのは間違いない。
 前回、食堂車で食事したときのことを芙美子はこう書いている。

 

 

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まづ、運ばれた皿の上を見ますと、初めがスープ、それからオムレツ(肉なし)ウドン粉料理(すゐとんの一種)プリン、こんなもので、東京の本郷バーで食べれば、これだけでは二拾銭位でせう。ーー悪口を云ふのではありません。それがこゝでは三ルーブルです(約三円)。驚木桃の木山椒の木とは此事でせう。思わず胸に何かこみあげて来るやうな気がしました。(西比利亜の三等列車・第5信より)

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 彼女にとってはまさに食堂車は〝ブルジョワレストラン〟だったわけだ。
 そのため芙美子は、日本円の力が強いハルピンなどで食料や生活必需品を買い込んでいる。以下は彼女がハルピンでした買い物リストだ。

 

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   ハルピンにて買物。(大安を日本金に換算して約左の通り)
   七円五十銭–紅色毛布。
   六十銭–葡萄酒一本。
   四十銭–紅茶一缶。
   十二銭–アケビの籠。
   七十五銭–湯沸し。
   二十八銭–匙と肉刺一本づゝ。
   二十銭–ニユームのコツプ一ツ。
   四十銭–瀬戸ひき皿一枚。
   五十銭–林檎十個。
   七銭–レモン二箇。
   二十五銭–洋梨五箇。
   二十銭–キヤラメル。
   八十銭–ソーセージ三色混ぜて。
   六十銭–牛缶二箇。(安物買つて損した。)
   二十銭–バタ。
   四十銭–角砂糖大。
   三十五銭–パン五日分。
   外、アルコールランプ必要。
(林芙美子・巴里まで晴天より)

 

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 芙美子は列車の中では、外国人の乗客と仲良くなり、買い込んだ物を交換したり、時にはねだられて気前よくあげてしまったりしている。そして今回のように、仲良くなったボーイの部屋に上がり込んでスープをごちそうになったり。
 そんなふうに外国人と触れ合うのも、芙美子にとって、大きな旅の魅力だったのだろう。


 

 

 

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芙美子が旅をしたシベリア鉄道の食堂車の値段。東支鉄道は単位が〝銀弗〟、ソヴィエト鉄道は〝ルーブル〟となる

 

 

 

 

 

      *この連載は毎週日曜日の更新となります。次回更新は10/16(日)です。お楽しみに。           

 

                     

 

 


 

                                                                                                 

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林 芙美子

1903年、福岡県門司市生まれ。女学校卒業後、上京。事務員、女工、カフェーの女給など様々な職業を転々としつつ作家を志す。1930年、市井に生きる若い女性の生活を綴った『放浪記』を出版。一躍ベストセラー作家に。鮮烈な筆致で男女の機微を描いた作品は多くの人々に愛された。1957年に死去。代表作は他に『晩菊』、『浮雲』など。

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