アジアは今日も薄曇り

アジアは今日も薄曇り

#09

台湾〈9〉栗松温泉

文・下川裕治 写真・廣橋賢蔵 

猛暑の中、谷底温泉へ

 気温35度を軽く超える猛暑のなか、紅葉谷温泉に浸かった。河原を流れる温泉の湯に体を浸した入浴だったが。その日は、そこから栗松温泉に行くことになっていた。ここは嘎拉賀(がらほ)野渓温泉のような谷底温泉らしい。台湾の秘湯温泉の案内役である廣橋賢蔵さんが以前に訪ねていた。

「嘎拉賀よりはずっと楽ですよ」

 と彼はいっていたが、その言葉は信じないことにしていた。彼の言葉を鵜呑みにしたおかげで、これまでどれほど苦労していたことか……。それにこの暑さである。気温が低い時期と違い、少し歩いただけでも汗が吹きでてくる。

 車は台湾の東側の道を北上し、南部横貫公路に入っていった。新武呂渓という川に沿った道を深い山に向けて進んでいった。

 南部横貫公路は行き止まりの道だった。かつては台南と台東を結ぶ道として多くの車が行き交っていたが、2009年の八八水害で寸断されてしまった。すでに10年以上が経過しているんだが、いまだに不通のままだった。

 栗松温泉はその途中。谷底への降り口までの道は通ることができるようだった。

 廣橋さんは、若干だが僕の体力を気遣ってくれた。草が生い茂る隘路を、ぎりぎりまで進んでくれた。途中に岩があり、車のボディを傷つけてしまうというトラブルはあったが。

 栗松温泉のくだり口には、プラスチック製の箱が用意され、そこに軍手が数十枚入っていた。温泉に行く人がここで軍手をはめ、帰りに置いていくというシステムだった。

 嫌な予感がした。

 日本の山を登るとき、しばしば軍手をはめる。岩が露出していたり、鎖場があるときだ。鎖場というのは、急な斜面で、垂らされた鎖につかまって登る難所である。

 しかしくだりはじめると、山道の両側に道を間違えないようにと、ロープの柵が設置されていた。

 軍手はこのためか……。

 一瞬、安堵したが、そのロープ柵は30分ほどくだると途切れ、急斜面になった。そこに2、3本の太いロープが吊るされていた。

 軍手はこのロープを握るとき用だった。台湾の谷底温泉は甘くなかった。

 岩が顔をのぞかせる急斜面だった。体の向きを変え、ロープをつかみ、後ろ向きにならないとくだることができない。10メートルほどのロープが終わると、また次のロープがつるされている。そんな道を、足場に注意を払いながらくだっていくのだ。日本の北アルプスの頂上付近の急な道と変わりはない。谷底への道は急な崖を一気に降りていくルートになっていたのだ。

 嘎拉賀より楽?

 とんでもなかった。完全な崖くだりではないか。降りていくときはまだいいかもしれない。しかし帰路、このロープにつかまり、体を引きあげていかなくてはならないのだ。

 最後は岩がガラガラと堆積した斜面になった。ロープを伝って降りると谷底に出た。

 前には穏やかな流れがあった。嘎拉賀野渓温泉もそうだったのだが、崖をくだり終わって出た沢は、まるで山のなかに突然、出現した桃源郷のように美しかった。ここに温泉宿でもあったら、何日も居座ってしまいそうだった。

 あたりを見まわした。しかし温泉がない。

「いったん川を渡って、川岸の岩場を上流に進むと、その対岸に温泉があるんです」

 廣橋さんがそう説明してくれた。その岩場を見てみる。鎖が渡されていた。

 まだ先なのか。

 ずいぶん迷ったが、足は動かなかった。嘎拉賀野渓温泉と同じだった。川底までくだったのだが、温泉に入る気になれない。帰りの急登を考えると、のんびり湯に浸る気分になれない。栗松温泉は、台湾でもっとも美しい野渓温泉などといわれているらしいが、そんな言葉をいくら聞かされても、心は動かなかった。

 

IMG_0137

こういう岩場の連続です。気温35度超えのなかでの急斜面。きついです

IMG_0141

これが栗松温泉。温泉が滝のように流れ落ちているらしい。この場所は天国なのでしょうが

 

 予想通り、帰りはつらかった。筋肉の疲れは、足だけでなく、腕や肩まで広がった。登り口に戻ったときはヘロヘロだった。

 そこから下馬民宿まで車で戻った。さすがの廣橋さんも疲れているようだった。谷底温泉への急な坂道に加え、高い気温が体力を奪う。夕食の途中から、頭が痛いと訴え、早々に横になってしまった。

 翌日は轆轆(ルールー)温泉に行くことになっていた。下馬民宿から片道1日かかる。現地ではテント泊になる。ガイドをつけないといけないようで、民宿の主人に依頼していた。夜、なんとか体力を回復させようと部屋で寝ていると、民宿の娘さんがやってきた。

「明日のガイドはなかなかみつからないんです。いまは登山シーズンで、玉山登山へのガイドに駆り出されていて」

 僕は胸をなでおろした。

 轆轆温泉へはキャンセルになる……。

 

 

●好評発売中!

双葉文庫『東南アジア全鉄道制覇の旅 インドネシア・マレーシア・ベトナム・カンボジア編』

発行:双葉社 定価:本体657円+税

 

東南アジア全鉄道2書影

 

*本連載は月2回(第2週&第4週木曜日)配信予定です。次回もお楽しみに!

 

se-asia00_writer

著者:下川裕治(しもかわ ゆうじ)

1954年、長野県松本市生まれ。ノンフィクション、旅行作家。慶応大学卒業後、新聞社勤務を経て『12万円で世界を歩く』でデビュー。著書に『鈍行列車のアジア旅』『不思議列車がアジアを走る』『一両列車のゆるり旅』『東南アジア全鉄道制覇の旅 タイ・ミャンマー迷走編』『東南アジア全鉄道制覇の旅 インドネシア・マレーシア・ベトナム・カンボジア編』『週末ちょっとディープなタイ旅』『週末ちょっとディープなベトナム旅』『鉄路2万7千キロ 世界の「超」長距離列車を乗りつぶす』など、アジアと旅に関する紀行ノンフィクション多数。『南の島の甲子園 八重山商工の夏』で2006年度ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。WEB連載は、「たそがれ色のオデッセイ」(毎週日曜日に書いてるブログ)、「クリックディープ旅」、「どこへと訊かれて」(人々が通りすぎる世界の空港や駅物)「タビノート」(LCCを軸にした世界の飛行機搭乗記)。

紀行エッセイガイド好評発売中!!

東南アジア全鉄道制覇1cover

東南アジア全鉄道制覇の旅

タイ・ミャンマー迷走編

se-asia00_book01

鈍行列車のアジア旅

se-asia00_book02

不思議列車がアジアを走る

se-asia00_book03

一両列車のゆるり旅

アジアは今日も薄曇り
バックナンバー

その他の辺境・秘境の旅

ページトップアンカー