三等旅行記

三等旅行記

#09

ノボオーシビルスクと云ふところ

文・神谷仁

露西亜人はどうしてかう唄が好きなのでせう

 

 

 

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< 5信 >


 十六日の夕方、ノボオーシビルスクと云ふところへ着きました。そろそろ持参の食料品に嫌気がさして、不味い葡萄酒ばかりゴブゴブ呑んでゐました。起きても寝ても夢ばかりです。私は一生の内に、あんなに夢を見る事は再びないでせう。まるで呆んやりとして夢の続きばかりのやうでした。
 ノボオーシビルスクでは十五歳位の男の子が一人乗つて来ました。勿論隣室のピエルミ君の上のワゴンに寝るんでせうが、来るとすぐ私の部屋にはいつて来て、ヤポンスキーと呼びかけて来るのです。
 長い事かゝつて聞いた事は、母親がモスコー婦人会の書記のやうな事をして、それに一年振りで会ひに行くのだと云ふ事でした。
 子供の母親の名前は、カピタリナカーパと云ふ人ださうです。僕はピオニエールだよ、さう云つて元気に出て行きましたが、兎に角シベリアの三等列車は呑気で面白い。
 十七日、昼食の注文を朝のうちに取りに来ましたので、食べる事にして申し込みました。申し込むと云つたところで、扉をニューと開けて食堂ボーイが、「アベード?」と覗きます。それに承知《ダア》とか、不承知《ニエット》とか答へればいゝんで、訳はないのです。
 大変昼が楽しみでした。ピエルミ君も初めて、注文したらしく、指をポキポキ鳴らして嬉しさうでした。窓に額をくつつけて、吹雪に折れさうな白樺のひよろひよろした林を見てゐると、ピエルミ氏はタンゴの一節を唄つてくれたのですが、露西亜人はどうしてかう唄が好きなのでせう。いつそ此人の奥さんになつて、ピエルミで降りてしまほうかなんぞやけくそな事を考へたのですが、何しろ言葉が分らないし、私とは二尺位も背丈が違ひ過ぎるやうな気がしましすし、ともあれ諦める事にきめましたが、ピエルミまではまだ大丈夫日数があるので、楽しみです。甘いつて、まあ……笑つて下さい。自分で何か考へて行くか、空想してゆくか、本当は退屈な旅なのですよ。これで一二等に乗つてゐる人達はどんな事をして暮らしてゐるのでせうか。
 お昼は、ピエルミ氏が先頭でゲルマンスキーと相客のミンスク氏も一緒です。此ミンスク氏の名は、ミンスクで下車するといふので、私はいつもミンスクと呼んで笑はせてゐました。(ミンスクは波蘭土《ポーランド》の国境に近い方)

 まづ、運ばれた皿の上を見ますと、初めがスープ、それからオムレツ(肉なし)ウドン粉料理(すゐとんの一種)プリン、こんなもので、東京の本郷バーで食べれば、これだけでは二拾銭位でせう。ーー悪口を云ふのではありません。それがこゝでは三ルーブルです(約三円)。驚木桃の木山椒の木とは此事でせう。思わず胸に何かこみあげて来るやうな気がしました。食べてゐる人達はと云へば、士官と口紅の濃い貴婦人が多いんです。貴婦人と云つても、ジャケツの糸がほぐれてゐるやうなのがおほかたなのですよ。ーーけつして労働者ではない級の女達です。インテリ級の貴婦人なのでせう。こつちの百姓の女は、絵描きが着るやうなブルーズを着こんでゐます。日本ではよいとまけの土工女がせいぜい荒つぽい仕事位に思つてゐましたが、こちらでは女達だけで長い線路をつくつてゐました。
 車窓から見た七日間の露西亜の女は、とてもハツラツと元気で、悪く云へば豚のやうになつてゐる女が多い。チエホフ型の女とか、ゴルキーの女とか、そんな女は今のロシヤにはゼイタク事なのでせう。一二等の廊下で、呆んやり同志の働きを見て、爪の化粧をしてゐるロシヤのインテリ婦人も居るのだから、ロシヤはなかなか広いものでした。

 林檎が一個一ルーブル、玉子一ツ五十カペック、ーーまだ驚きましたのは、バイカルを過ぎた頃売りに来た、いなり寿司のやうな食料です。思はず雑誌をはうりつぱなしにして、「アジン!」《ひとつ》と怒鳴りました。二個一ルーブルで買つて、肉を刻んだのでもはいつてゐるのだらうと、熱いやつにかじりつくと、これはまたウドン粉の天麩羅でありました。
 ウドン粉の揚げたのが一円だなんて、私は生れて、此様なぜいたくな買物をした記憶を持つたのは初めてです。鶏の小さい丸焼きが五ルーブル位です。とても手が出ません。牛乳が飲みたかつたし、茹で玉子が欲しかつたし、ーーだが、高くて手にあひませんでした。

 

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<解説>
 

 満州里より、シベリア鉄道に乗って5日目。ノヴォシビルスクに到着した芙美子。
 ここはシベリア鉄道建設中の1893年につくられた新しい街だった。元々はロシア帝国皇帝のニコライ2世にちなみノヴォニコラエフスクという名前だった。しかし、ソビエト連邦成立後の1925年、帝政ロシア時代の名残を感じさせる名前を廃し、「新しいシベリアの街」を意味するノヴォシビルスクとなった。この地は1930年以降、ソビエトの第一次五ヶ年計画により、工場や発電所が建設され、シベリア最大の産業の中心地となった。

 

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ノヴォシビルスク(Novosibirsk)ーータイガより約五時間、満州里より5日目に着く。市外はオビ河岸にあり人口十一萬、西比利亜に於ける政治経済の中心で西比利亜の市加古と呼ばれている。わが帝国領事館がある。一九二二年オムスクから西比利亜革命委員会此の地に移されて以来長足の発達をなした。穀物、バタの集散盛んで、農産物の取引高一億三千万留(一九二五年度)に上っている。観光か所に「レーニン」館、西比利亜国営商業部、皮革、木材、各シンジケート、牛酪組合等がある。日刊新聞ソヴィエッカヤシビリ(ソヴィエトの西比利亜)が発行される。ホテル「コムナリヌイエノメラ/中央労働消費組合ホテル」等室代二留以上。
 アルタイ鉄道はここから「セミバラチンスク」まで六一三露里で、途中「アルタイスカヤ」から「ビースク」に至る延長百三十八露里の支線がある。

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 上記は1929年(昭和4年)7月に鉄道省が出版した『西比利亜経由欧州旅行案内』にある、ノヴォシビルスクの解説だ。
 1922年から数年でシベリアの中心地としてホテルなども建設され、シベリア鉄道の要衝となっているのが分かる。

 

 

 

 

 

 

 

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ノヴォシビルスクの手前の駅となるタイガの写真(『世界地理風俗大系 8巻・サヴィエート・ロシア』新光社 昭和6年発行より)。泥だらけの道に馬車が停まっている。この街もノヴォシビルスク同様、19世紀末に作られた。広大な原野の中にぽつんと街があるのがわかる。

 

 

 

 

 

      *この連載は毎週日曜日の更新となります。次回更新は10/10(日)です。お楽しみに。           

 

                     

 

 


 

                                                                                                 

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林 芙美子

1903年、福岡県門司市生まれ。女学校卒業後、上京。事務員、女工、カフェーの女給など様々な職業を転々としつつ作家を志す。1930年、市井に生きる若い女性の生活を綴った『放浪記』を出版。一躍ベストセラー作家に。鮮烈な筆致で男女の機微を描いた作品は多くの人々に愛された。1957年に死去。代表作は他に『晩菊』、『浮雲』など。

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