三等旅行記

三等旅行記

#08

モスコーへ

文・神谷仁

いよいよ露西亜です。青い空と真赤な旗が新鮮でした

 

 

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<4信 >

 

モスコーへ行く日本人は私一人です。マンジウリの領事から、モスコーの廣田大使へて当てての外交書簡を是非持って行ってほしいと云う事が持ち上がりました。

共産軍はもうチチハルへ出発したとか、ロシヤの銃器がどしどし中国の兵隊に渡つてゐるとか、日本隊は今軍隊が手薄だとか、兵匪の中に強大な共産軍がつくられてゐるとか、風説流々です。 戦ひを前にしての静けさとでも云ひますのか、マンジウリの駅は、此風説に反してひつそりしてゐました。私は5ツ所も赤い封蝋のついた大きな状袋をトランクに入れて鍵をかけると、何だか妙に落ち着けない気持ちでした。 もし調べられた場合は……その時の用意に、露文で、外交官としての扱いをして戴きたいと云った風な、大した添書も貰っているのでしたが、妙にヒヤリツとした気持でありました。 愛国心とでも云うのか、そんな言葉ではまだ当てはまらない、酸っぱい気持ーー何にしても早く国境を越えてくれるといい。  

いよいよ露西亜です。 青い空に真赤な旗が新鮮でした。赤い荷物車が走つてゐる。杳々とした野が続いて、まるで陸の海です。

私は露西亜へ這入つてから二拾円だけルーブルに換へました。列車の中に国立銀行員が鞄を持つてやつて来ます。国立銀行員だなんて云つても、よぼよぼの電気の集金人みたいな人でした。印刷したてらしいホヤホヤのルーブル紙幣を貰つたのですが、まるで、煙草のレッテルみたいで、麦の束が描いてありました。その紙幣を九枚に小銭を少し、丁度四拾銭程換算賃をとられました。

夕方、時計は七時ですが、明るい内にハラノルへ着きました。小駅で、発車を知らせるのに小さい鐘を鳴らしてゐました。

ところで、まづ、私の寝室をに書きませう。 一室に四人づつで、一ツ列車に八ツ室があります。私は、一等も二等も覗いて見ましたが、シベリヤを行かれる方には是非三等をお薦めしたいと思ひます。 けつして住み悪くはありませんでした。初め、列車ボーイに、日本金の参円もやればいいと聞いてゐました。つまり日が五拾銭の割でせうが、私は何を考へ事をしてゐたのか、思はず五円もやつてしまひました。大変気前のいいところを見せたわけです。ーーここではルーブルでチップをやつてもボーイは決して有難い顔をしないでせう。日本金でやれば、国外で安いルーブルが買へるからです。   私の部屋のボーイは、飛車角みたいにづんぐりして、むつつり怒つたやうな顔をした青年でした。帽子には油じみた斧と鎌の、ソヴェートの徽章がついてゐます。 五円やつたからでもないでせうが、大変深切でした。私は二日間で私の名を覚えさせました。帽子をぬぐと額が雪のやうに白くて、髪は金色です。モスコーに母親とびつこの弟が居ると云ふ事が判りました。私に巴里へ行つて何をするのだと聞きますので、お前のやうな立派な男をモデルにして絵を描くのだと云つたら、紙と鉛筆を持つて来て、私はひどく赤面しました。

日本の旅は道づれと云ふ言葉を、今更うまい事を云つたのもだと感心してゐます。私の隣室は、ドイツ商人で、ボーイは、ゲルマンスキーの奴はブルジョワだと云つて指を一本出して笑つてゐました。 何でブルジョワだと聞くと、タイプライターも、蓄音機も、写真機も持つてゐるからだと云つてゐました。此隣りのゲルマンスキーも仲々愛想のいい人でしたが、その同室にゐるロスキーは旅行中一番親切でした。

私の部屋はまるで貸しきりみたいに私一人です。だから、私は朝起きると両隣りからお茶に呼ばれるし、トランプに呼ばれるし、何しろ出鱈目なロシヤ語で笑はせるんだから、可愛がつてくれたのでせう。左隣りはピエルミで降りる若い青年と、眼の光つた四十位の男と乗つてゐました。私は此ピエルミで降りると云ふ青年がとても好きで、よく廊下の窓に立つては話をするのですが、何しろ雲つくやうな大男なのです。話が遠くて、よくかがんでもらつたのですが、ボロージンとはこんな男ではないかと思ふ程、隆々とした姿で、瞳だけが優しく、青く澄んでいました。

 

 

 

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<解説>

芙美子を乗せた列車は、いよいよ満州を越えてソビエトに入った。 ソビエトは1917年に起こったロシア革命を起源として1922年、ロシア社会主義連邦ソビエト共和国(1936年、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国に改称)に成立したばかりの国家だった。芙美子がこの地を旅した1931年は、まだ国家として安定するにいたらず、一触即発の状態であり、さらに日本は20数年前に日露戦争の当事国であり、お互いの国民感情に複雑なものがあったのは想像に難くない。“共産軍”や“中国の兵隊”“ロシヤの銃器”などと、いう剣呑な言葉がならぶ芙美子の文からも、現地のそんな状況が伺えるようだ。

 

「モスコーへ行く日本人は私一人です。マンジウリの領事から、モスコーの廣田大使へて当てての外交書簡を是非持って行ってほしいと云う事が持ち上がりました」

 

文頭にはこんな一文があるが、当時は通信手段も限られていたため、外交文書などを、信用できる旅行者や仕事などで海外を移動する人に託すということがあったようだ。 これも当時の海外旅行や現地の状況を表している記録などだが、実はこの一文は、後の版では削除されてしまっている。 文泉堂出版より発売された『林芙美子全集 第10巻』(1977年4月発行)では、「共産軍はもうチチハルへ出発したとか、ロシヤの銃器がどしどし中国の兵隊に渡つてゐるとか~」からこの第4信が始まっている。

 

「私は5ツ所も赤い封蝋のついた大きな状袋をトランクに入れて鍵をかけると、何だか妙に落ち着けない気持ちでした。 もし調べられた場合は……その時の用意に、露文で、外交官としての扱いをして戴きたいと云った風な、大した添書も貰っているのでしたが、妙にヒヤリツとした気持でありました。 愛国心とでも云うのか、そんな言葉ではまだ当てはまらない、酸っぱい気持ーー何にしても早く国境を越えてくれるといい」

 

 

その文に繋がる上記の部分も、芙美子の“もし共産軍に捕らえられたら……”という不安が伝わってくるが、後の版ではごっそりと削られている。 もちろんこれは芙美子が、後に再発するにあたり必要ないとして削除したのであろう。 もともと芙美子は代表作である『放浪記』を始め、自著に大幅な改稿を行うことでも知られている。この『西比利亜の三等列車』でも、その例に漏れず言い回しなど多くの部分が変えられている。 今回のこの連載では、できる限り初版のかたちに則って掲載し、当時の旅の匂いや芙美子の感じたことをお伝えできればと考えている次第だ。

 

 

 

 

 

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シベリア鉄道の線路。ハバフロスクからチタを越えたあたりからは、このような何もない広大な草原が続く

 
 

       

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 当時のシベリア鉄道の停車場。多くの駅はプラットフォームや屋根がなく、その土地の人が物を売りにやって来ていた

 

 

 

 

*本文は、書かれた時代や社会情勢などを考慮して原文のまま表記しております。

 

 

 

 

 

      *この連載は毎週日曜日の更新となります。次回更新は10/2(日)です。お楽しみに。           

 

                     

 

 


 

                                                                                                 

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林 芙美子

1903年、福岡県門司市生まれ。女学校卒業後、上京。事務員、女工、カフェーの女給など様々な職業を転々としつつ作家を志す。1930年、市井に生きる若い女性の生活を綴った『放浪記』を出版。一躍ベストセラー作家に。鮮烈な筆致で男女の機微を描いた作品は多くの人々に愛された。1957年に死去。代表作は他に『晩菊』、『浮雲』など。

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