三等旅行記

三等旅行記

#07

露西亜の女

文・神谷仁

「紙風船はロシヤのお婆さんにもひどくしくりと似合ひました

 

 

 

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 < 3信 >


 十四日です。
 私は戦ひの声を幽かに聞いた。ーー空中に炸裂する鉄砲の音です。初めは枕の下のピストンの音かと思つてゐましたが、やがて地鳴りのやうに変り、砧のやうにチョウチョウと云つた風な音になり、十三日の夜の九時頃から、十四日の夜明けにかけて、停車する駅々では、物々しく支那兵がドカドカと扉をこづいて行きます。
 激しく扉を叩くと、私の前に寝てゐる露西亜の女は、とても大きな声で何か呶鳴りました。きつと、「女の部屋で怪しかないよ」とでも云つてくれるのでせう。私は指でチャンバラの真似をして、恐ろしいと云ふ真似(読み方:そぶり)をして見せました。ロシヤの女は、それが判るのでせう、ダアダアと云つて笑ひ出しました。私は此女と一緒に夕飯を食堂で食べました。何か御礼をしたい気持ちでいつぱいなんですが、思ひつきがなくて、ーー出発の前夜、銀座で買つた紙風船を一つ贈物にしました。
 彼女は朝になつても、その風船をふくらましては、「スパシイボウ!」と喜んでくれました。まるで子供のやうです。紙風船は影の薄い東洋人にばかり似合ふのかと思ふと、このロシヤのお婆さんにもひどくしつくりと似合ひました。手真似で女学校の先生だと云つてゐましたが、勿論白系の方なのでせう。
 ひわ色に白にぼたん色に紙風船のだんだらが、くるくる舞つて、何か清々した風景です。
 窓のカーテンは深くおろしたまゝです。
 海拉爾(読み方:ハイラル)には朝十時頃着きました。
 もう再び会ふ事はないだらう、此深切なゆきずりびとをせめて眼だけでも見送りたいものと、握手がほぐれると、私はすぐカーテンの隙間から、ホームに歩いて行く元気のいゝお婆さんの後姿を見てゐました。巴里へ来るまで……来てまでも、私は沢山の深切なゆきずりのひとを知りました、何もしても報いられないのですが、そのまゝお互ひがお互ひを忘れて行くのでせう。

 駅のロシヤ風の木柵の傍には、支那兵とアメリカの記者団が何か笑ひながら握手してゐました。ーーどうしたせゐか、一望の端に見える西比利亜の空が、ひどく東洋風なので支那の人達の方の顔がしつかりとして見えました。ーーでもいお互ひが虎を背負つてゐるかたちかも知れない……。
 マンジウリに着いたのがお昼です。露支の国境です。まだ雪は降つてゐません。珍らしく日本風な太陽が輝いてゐました。日本風なーー笑ひますか、こんな言葉も一脈のノスタルジヤでせう。
 こゝでは大毎の清水氏や、ビュウローの日本のひとが出てくれました。二人ともいゝ方でした。
 安東を出てから二度目の税関です。荷物を税関に運んで、調べて貰ふ間にパスポートにスタンプを押して貰ひました。ガランとした税関の高い壁上には、大きな西比利亜の地図が描いてありました。一寸田舎の小学校の雨天体操場と云つた感じです。西比利亜を通過する旅客は、ドイツの商人と私との二人きりです。鞄をあけた露西亜の税関に調べて貰つてゐる間に、支那の憲兵が何度も私の姓名と職業を尋ねました。パスポートを調べられるのは勿論ですし、所持金まで聞かれました。勿論これは露西亜側の方です。で、私は人に教はつた通り、米弗(読み方:ドル)で三百弗だと書いてみせました。写真機もタイプライターも持つてゐませんでしたが、若し持つてをれば、通過する間封ぜられます。
 税関では、一ツ面白い事がありました。下村千秋氏が玉木屋のつくだ煮を下すつたのを持つてゐたのですが、どうしても開けて見せろと云ふので、私は開いて貝を一ツ摘んで食べて見せました。
 此様な、まるで土みたいな色をした食料品なぞ、不思議なのでせう。
 一切の仕事が片づくと、さて、一週間を送るべき、モスコー行きの硬床ワゴンに落ち着くのでありますが、その前に、私としては初めての、小さい役割をすることになつたのです。

 

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<解説>

満州のハルピンを旅立った芙美子は、列車に揺られ、ハイラルから満州里(文中ではマンジウリ)へ。
 彼女が乗車しているのは南満州鉄道、通称満鉄だ。この満鉄は日本の満洲経営・大陸政策の中核ともいうべき会社だった。
 この会社が設立されたのは明治39年。資本金2億円で当時は日本最大の株式会社と称された。満鉄の事業は、鉄道業を中心に、ホテルや倉庫の経営、鉄道付属地の経営、炭坑と製鉄所、大連港の経営と海運業、理・工・農学の研究開発部門、経済政策の立案など多岐にわたり、最盛期には関連会社が80社もあり、さらには満州に駐屯する日本軍の関東軍とも深い結びつきもあった。
 さて、芙美子がハルピンから満州里の移動に使ったのは、そんな満鉄の路線のひとつである浜洲線(ひんしゅうせん)。ハルビンから満州里駅まで900キロ以上もの距離を結んでいた。
 この地域は、当時、日本の勢力圏だったとはいえ、満州事変の直後で、中華民国やソビエトなど様々な国がこの地域を虎視眈々と狙っている状態だった。
 芙美子の文の中に兵隊らの様子がでてくるなど、かなりものものしい状況であったのは間違いない。ひとつ間違えば、いつ間近で戦闘が始まったり、兵隊に撃たれてもおかしくなかっただろう。
 そんな中を、芙美子はひとりでパリへと向かっているのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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貴重な当時の[朝鮮及び満州]の地図(本文中に出てきた「ハルピン」「満州里」「ハイラル」は追記しました)。

 
 
*本文は、書かれた時代や社会情勢などを考慮して原文のまま表記しております。

 

 

 

 

 

      *この連載は毎週日曜日の更新となります。次回更新は9/25(日)です。お楽しみに。           

 

                     

 

 


 

                                                                                                 

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林 芙美子

1903年、福岡県門司市生まれ。女学校卒業後、上京。事務員、女工、カフェーの女給など様々な職業を転々としつつ作家を志す。1930年、市井に生きる若い女性の生活を綴った『放浪記』を出版。一躍ベストセラー作家に。鮮烈な筆致で男女の機微を描いた作品は多くの人々に愛された。1957年に死去。代表作は他に『晩菊』、『浮雲』など。

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