ブルー・ジャーニー

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#06

グアム 海を見る人〈2〉

文と写真・時見宗和 

Text & Photo by Munekazu TOKIMI

ハッピー・ファーザーズデイ

 深く青い空から降り注ぐ日差しが、ちりちりと肌を刺す。切り絵のようなヤシの木陰を、両腕に余るトカゲが横切っていく。

 パーキングエリアに車を止め、手足を伸ばしていると、若者が近づいてきて言った。

「イート?」

 指さす方向を見ると、大勢の人がテーブルを囲んでいる。

 若者は早口で自分の名前を言い、人なつこい笑顔でつづけた。「ジェイでいいよ」

 ジェイのあとについて行くと、炭火のうえで大きなエビとタコが身をくねらせている。

「獲ってきたばかりのやつだよ」

 となりのバーベキューコンロでスペアリブが油を滴らせ、テントの下のテーブルには、大きな皿やボウルに盛りつけられた 手作りの料理が並んでいる。​

 

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 グアムの北西の海岸に、島の人びとが見たことのない巨大な船がすがたを現したのは、足利義晴が室町幕府第一二代将軍になった一五二一年(大永元年)三月六日のことだった。

 数百隻の帆走アウトリガーカヌーで出迎えた島の人びとは、色が白く、髭を生やした奇妙な容姿の人間たちに水や食料を与え、船から鉄製の物や上陸用の小舟を持ち帰った。

 相手が望むものを与え、自分が望む物を手にするという島の人びとの三千年の慣習を理解できなかったフェルディナンド・マゼランは、グアムを“ラドロネス(どろぼう)島”と名づけ、家を五〇軒焼き払い、島民を七人殺して立ち去った。

 一五六五年(永禄八年)、スペイン国王はグアムと近隣の島々を「自分のもの」だと宣言。国王の命を受けてやってきたコンキスタドール(征服者)ロペス・デ・レガスピは祖国に伝えた。

「チャモロ人は皆すはらしい泳ぎ手で、素手で魚をつかまえることができる。人間よりも魚に近いように見えることがある」

 一五八八年(天正一六年)イギリスの海賊キャベンディッシュは帆走アウトリガーカヌーに囲まれ、後ずさりした。

「長髪の野蛮人を満載したカヌーが六〇隻から七〇隻、なかには頭の頂点で髪をひとつないしふたつに縛り上げている者もあり、まさに木彫りにみるごとく、悪魔のようなすがたが舟のへさきに立っていた」

 イギリスの研究者ジェームス・ホーネルは著書『オセアニアのカヌー』に、このころの探検家の声を集約した。

「その速さと優美さで、ほかのどの島にも増してマリアナ諸島の帆船は、それを見る幸運に浴した航海者を魅了し、賛美の声を上げさせた」

 一六〇二年(慶長七年)に上陸したフアン・ポプレ神父は印象を書き残した。

――チャモロ人は非常に同情心の厚い人びとである。一家の主、あるいは妻や子どもが病気になると、村に住むすべての親戚が手持ちの最高の食材を使って食事を用意し、病人の家に届ける。それは病人が死亡するか回復するまでつづけられる。

 一六八六年(貞享三年)、グアム島を襲撃したイギリスの海賊ウィリアム・ダンピアは言った。

「彼らが操る舟は、世界中でいちばんすばらしい。その飛ぶような速さを計ってみると、時速一二マイル(約時速二〇キロ)だった。わたしなら時速二四マイル(約時速四〇キロ)は出せると思う」

 

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 ジェイに聞く。

「これはどういう集まり?」

「ハッピー・ファーザーズ・デイ。あそこにいるのがおじいさんとおばあさん。そのこどもたち、おれは孫、そしておれのこどもの世代、金曜日からここに集まっているんだ」

「三日間もここに」

「そう、食べて、歌って、海に入る。食べるものがなくなったら釣りに行くんだ」

 ビールをひと口飲み、ジェイはつづけた。

「チャモロ人は海に生まれ、海に死ぬ。もちろんおれもそう。いろいろなところに行ってみたいけれど、でも、ぜったいにこの島から離れない」

「カンパイ」ビッグパパの子どもの年代の男性がやってきて、潮に洗われた顔をほころばせる。「トモダチ、アリガト」

 

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 ビッグパパとビッグママを乗せたゴムボートが、たくさんの手のひらに支えながら環礁に向かう。環礁はグアム固有の三〇〇種類以上の珊瑚によって、形づくられている。

 笑い声がゴムボートのあとを追う。

 少女たちの歌声が聞こえる。

 太陽が水平線に吸いこまれていく。

「すごくおいしかったです。ありがとうございます」

 ポケットから財布を取り出しながらそう言うと、ビッグパパは、とても悲しそうな顔で首を横に振った。

 

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 一六六八年(寛文八年)、スペインは、水夫たちに“三角帆の島々”と呼ばれていたこの地域を、大后マリー・アンヌ・ドートリッシュの名前を取って“マリアナ諸島”と命名。神父ディエゴ・ルイス・デ・サンピトレスとイエズス会の宣教師団を派遣し、キリスト教化に反抗する村を焼き払い、村民をひとり残らず殺害。さらに天然痘、はしか、肺結核などの伝染病と緩慢に進行するハンセン病をまき散らした。

 島の人びとにとって、なによりつらかったのは文化が精神的に抹殺されることだった。従属させられるみじめさに絶望し、自ら命を絶つ者がつづいた。生んだばかりの赤ん坊を水に投げ入れ、子どもを産めない体にした。子どもたちにつらく悲惨な一生を過ごさせたるくらいなら、そのほうがましだった。

 全滅を避ける道を島の人びとが選び、二三年間に及んだ“スペイン・チャモロ戦争”が終わったとき、島民の数は一〇万~一五万人から五千人に減っていた。

 一六九八年(元禄一一年)、スペインはマリアナ諸島のすべてのチャモロ人をグアム島に移住させて強制労働に駆り立て、その結果、スペイン人、フィリピン人、カロリン人、ハワイ人との混血が進み、神話や伝統やカヌーの文化が失われていった。純粋なチャモロ人の数は一七一〇年(宝永七年)には三六七八人に、一七九〇年(寛政二年)には一六三九人に減少した。

 一八九八年(明治三一年)、アメリカ軍艦チャールストン号以下三隻の船が沖合に姿を現し、大砲が鳴り響いた。グアムのファン・マリーナ知事は捕虜として船上につながれ、スペインによる三〇〇年余りの支配が終わった。

 一九四一年(昭和一六年)、日本海軍がハワイ・オアフ島真珠湾のアメリカ海軍太平洋艦隊と基地を、宣戦を布告することなしに攻撃。数時間後、グアムの首都ハガニアに日本軍のゼロ戦が現れ、町を機関銃で攻撃。その二日後、ロタ島に集結した日本軍の歩兵部隊がグアムに上陸、抵抗する時間も与えずに占領し、グアムを“大宮島(偉大なる神のいる島)”に、ハガニアを“明石”に改名した。

 多くの島の人びとが殺され、拷問され、強制労働に駆り出された。食料のひとつだったソテツの実は、ほとんど唯一の食料となった。日本軍の占領下の三〇カ月間に一一〇〇人以上が命を落とした。

 一九四四年(昭和一九年)、アメリカ軍がグアムに上陸。三週間後、グアムは再度、アメリカの統治下に入れられた。道路にアスファルトが敷かれ、ガソリンスタンドやスーパーマーケットが建てられ、島の人びとの背の低い家々は高層アパートに立て替えられ、景色はアメリカ色に塗り替えられていった。

 一九六〇年(昭和三五年)、十分に基地を確保したアメリカは、観光や移住についての規制を解除。海辺にホテルが立てられ、森林は切り開かれてゴルフコースになり、伝統的な島の生活は、タモン、タムニン、ハガニアといった観光客の町から遠く離れた場所に追いやられていった。

 

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 やがて残照も消えた。

 きらめく星々。黒々とうねる海。

 褐色の人びとは、大洋の国の、遠い昔からなにも変わらぬ景色をいつまでも見ていた。

 

 

 

*本連載は月2回配信(第2週&第4週火曜日)予定です。次回もお楽しみに。

 

 

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時見宗和(ときみ むねかず)

作家。1955年、神奈川県生まれ。スキー専門誌『月刊スキージャーナル』の編集長を経て独立。主なテーマは人、スポーツ、日常の横木をほんの少し超える旅。著書に『渡部三郎——見はてぬ夢』『神のシュプール』『ただ、自分のために——荻原健司孤高の軌跡』『オールアウト 1996年度早稲田大学ラグビー蹴球部中竹組』『魂の在処(共著・中山雅史)』『日本ラグビー凱歌の先へ(編著・日本ラグビー狂会)』他。執筆活動のかたわら、高校ラグビーの指導に携わる。

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