韓国の旅と酒場とグルメ横丁

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#05

ソウル西村、ふたつの市場と追憶のトッポッキ

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 朝鮮王朝時代の故宮、景福宮に向かって右手(東側)に広がる北村(プクチョン)が日本人によく知られるようになると、故宮の左手(西側)に広がる西村(ソチョン)も注目されるようになってきた。ただ、どちらも韓屋マウル(伝統家屋街)なのだが、趣はずいぶん違う。今回は観光客であふれる北村よりも、生活の匂いが強く感じられる西村を歩いてみよう。

 

西村と北村の違い

 西村とは仁旺山の東側と景福宮の西側に挟まれた辺りを指し、玉仁洞、体府洞、樓上洞、樓下洞、通仁洞、通義洞、孝子洞など小さな洞(町)がパズルのように組み合わさってできている。住民たちに聞いたところによると、西村と呼ばれるようになったのはここ10年ほどで、最近は新たに「世宗(セジョン)マウル」という名が冠されている。ハングルを考案した世宗大王(1万ウォン紙幣の肖像)の出生地なので、それを称えるために付けたという。世宗大王を軽視するわけではないが、あまりに作為的で興趣に乏しい。

 北村が両班(支配階級)たちの居住地なら、西村は医官、訳官、尚侍、尚宮など、両班と庶民の中間に位置する人たちが多く住んだ街だ。彼らの文化芸術運動が花開いたところでもあり、北村と比べるとさまざまな文化的試みを受容するおらかさがあった。

 青瓦台(大統領官邸)が近かかったため、この辺りには1993年まで開発制限があった。ソウルのど真ん中でありながら、低層の韓屋が残り、狭い路地が続く風景が残っているのはそのためだ。

 西村独特の町並みを堪能したかったら、景福宮駅の2番出口を北方向に歩き、ウリ銀行の手前の路地を左に入るといい。韓屋の構造を生かした個性的なカフェやレストラン、ギャラリー、ゲストハウスなどが目立つ。それらの建物の脇からは生活感のある路地が縦横にのびている。

 朝鮮王朝時代から芸術分野で才能を発揮した人たちが多く住んだという来歴のせいか、近現代になってもこの地域には文人や画家たちが多く住み、それが今の西村になんともいえない色気を与えているようだ。

 

通仁市場で弁当のカスタマイズ

 韓屋の多い道を抜けて、少し広い通りに出ると、右手に通仁市場(トンイン・シジャン)の後門が見える。

 通仁市場の歴史は日本植民地時代にさかのぼる。始まりは1941年、孝子洞一帯に居住していた日本人のためにできた公設市場だった。1945年の後半から日本人が去り、1953年に朝鮮戦争が休戦になると、西村の人口増加とともに、生活市場として生きながらえてきた。東西に200メートルほどのびたその通りは今やアーケード化され、70以上の店が並んでいる。

 

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 地元民のための生活市場だった通仁市場だが、ここ数年、内外の観光客で賑わうようになった。その理由のひとつが「弁当カフェ」だ。昼どきに市場を歩くと、左手にプラスチックの黒いトレー、右手に朝鮮王朝時代に使われた真鍮の硬貨を模したコインを持っている人たちとすれちがう。彼らこそが弁当カフェの利用客。市場での買い食いは楽しいが、座ってゆっくり食べたい。そんな人のために始まったアクティビティだ。

 やり方は簡単。市場の中間にあるセンターで1枚500ウォンのコインをいくつかまとめて買ってトレーをもらう。そして、市場を歩きながら弁当カフェ加盟店の店先で調理される食べものを指さし、コインと交換するのだ。いわば弁当のカスタマイズである。

 コインが10~12枚もあれば、カラフルでボリュームたっぷりの弁当ができあがる。センターの2階と3階にある食事コーナーには、あたたかいご飯とスープが用意されていて、こちらもコインと交換できる。

 

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 加盟店で扱っているのは、粉ものやナムル、揚げ物や煮物などさまざま。なかでも通仁市場の名物、キルムトッポッキ(トッポッキの赤唐辛子オイル炒め)は人気があり、店の前にはいつも人だかりができている。

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生活感たっぷり、錦川橋市場

 西村にはもうひとつ素通りできない市場がある。景福宮駅の2番出口を登ってすぐ左手の路地を入ったところにある錦川橋市場(クムチョンギョ・シジャン)だ。

 入口から仁旺山方向に約300メートルのびており、ただでさえ狭い通りには野菜の入った段ボールや店の看板が突きだしていて、これぞ生活市場という趣だ。最近、「世宗マウル飲食文化通り」という名前が書かれたゲートが設けられたが、前述したような理由でどうもしっくりこない。

 

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 通仁市場に続けというわけではないのだろうが、1960年代に形成されたこの市場もここ4、5年でずいぶん若返った。昔ながらの商店や食堂の間に、おしゃれなカフェや飲み屋が目立つようになったのだ。私のように50代に手がと届きそうな者にとって、こうした変化は受け入れがたい点もあるが、「アジア的なごちゃごちゃした市場は苦手」と公言してはばからない最近の若者には、とっつきやすくなったといえるだろう。前回このコラムで取り上げた東大門の近くにある昌信市場と比べれば、よほどあか抜けしている。

幻の醤油トッポッキ

 錦川橋市場には名物おばあさんがいた。

 1950年、50キロほど北上した開城(ケソン)という町(今は北朝鮮領)から、用事があってソウルに来たものの、朝鮮戦争が勃発して故郷に帰れなくなり、3人の子供たちと生き別れになってしまったキム・ジョンヨンさんだ(写真左)。

 キムさんは知り合いのまったくいないソウルで一人暮らしを始め、はめていた指輪を売ったお金を元手に、この市場で野菜や豆腐、花などあらゆる商いをした。なかでも開城式の醤油トッポッキ(写真、拙著『서울을먹다/ソウルを食べる』より)を売るのがいちばん性に合い、40年以上も餅を炒め続けた。夢中でトッポッキを食べる子どもたちの姿に、故郷に残してきた我が子の思い出を重ねていたのだろうか。

 

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 再婚もせず、“烈女、二夫を更へず”を地でいく女性だった。ひと皿2000ウォン(約200円)のトッポッキをいくら売っても、1日の儲けはわずかだが、ときには貧しい子どもに無料でトッポッキを食べさせたり、爪に火を灯すようにして貯めたお金で苦学生を援助したりしていた。

 私もこの市場を訪れるたびにキムさんにあいさつしていたが、昨年の11月、肺がんで亡くなられた。享年98歳。生前から自身が公言していた通り、彼女の全財産は社会に還元されることになっている。その金額は7000万ウォンになるという。

 90年代に亡くなった私の母親も、朝鮮戦争のときに北朝鮮の黄海道から南に避難してきた人だった。食うや食わずの時代の空気を伝え続けてきた錦川橋市場は、さらに変化を続け、やがては高層ビルの一角に取り込まれてしまうかもしれない。それでも私は、キムさんの面影や母の思い出を探しに、この辺りをさまよい歩くだろう。

 

 

*本連載は月2回配信(第2週&第4週金曜日)の予定です。次回もお楽しみに!

 

 

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紀行作家。1967年、韓国江原道の山奥生まれ、ソウル育ち。世宗大学院・観光経営学修士課程修了後、日本に留学。現在はソウルの下町在住。韓国テウォン大学・講師。著書に『うまい、安い、あったかい 韓国の人情食堂』『港町、ほろ酔い散歩 釜山の人情食堂』『馬を食べる日本人 犬を食べる韓国人』『韓国酒場紀行』『マッコルリの旅』『韓国の美味しい町』『韓国の「昭和」を歩く』『韓国・下町人情紀行』『本当はどうなの? 今の韓国』、編著に『北朝鮮の楽しい歩き方』など。auポータルサイトの朝日新聞ニュースEXでコラム「韓国!新発見」連載中。株式会社キーワード所属 www.k-word.co.jp/

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