韓国の旅と酒場とグルメ横丁

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#04

東大門市場のとなりのディープタウン、昌信洞

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漢江の南と北、ソウルの光と影

 

 ソウルには二つの顔がある。ひとつは漢江の南側の江南(カンナム)エリアに象徴されるスタイリッシュなオフィスビルや商業施設。もうひとつは漢江の北側、江北(カンプク)に点在する韓屋(伝統家屋)や在来市場だ。

 しかし、最近は北側の景観も急速に江南化している。それを象徴するのが東大門市場に出現したDDT(ザハ・ハディッドがデザインした東大門デザインプラザ/写真)。発光する巨大宇宙船が舞い降りたようなその偉容は、ファッションビルと競技場と屋台群が共存していた、あか抜けない東大門エリアのイメージを一新してしまった。

 

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 光あるところに影があるというが、今回はその巨大宇宙船の影で、宇宙人、いや韓国人の生活感にふれられる下町、昌信洞(チャンシンドン)を歩いてみよう。

 昌信洞はソウル四大門のひとつである東大門の東側、地図でいうと地下鉄一号線東大門駅のある大通りの上と下の地域だ。朝鮮王朝時代、ソウル(漢誠)は四大門を結ぶ18kmの城郭の内部を指していて、そこには高級官僚である両班(ヤンバン)たちが住んでいた。

 今の昌信洞があるところはまさに城郭を一歩外に出た庶民生活圏の始まりだった。私が今住んでいる江東区というところは東大門駅から地下鉄で20分ほど東に行ったところにあり、今でこそソウル市に含まれているが、昔はソウル郊外の田舎町に過ぎなかったのだ。

 昌信洞はそんな歴史を物語るかのように、3000ウォンの定食(今どきは5000ウォンはする)を出す食堂や安売りスーパー、屋台などが並んでいる。

 

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 この町では何を食べても相場より安い。日本人が韓国に来て喜ぶ食べもののひとつに貝料理があるが、路地裏の海鮮料理店の値段には驚いた。大小の貝がたっぷり盛られ、2人でいやというほど食べられるチョゲチム(貝蒸し煮)の「中」(写真)が35000ウォン(約3300円)なのだ。

 

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 この辺りは文具や玩具の問屋街として有名だが、最近は昔を偲んで「縫製マウル(村)」と呼ばれたりするようになった。それはこの地域が東大門市場の衣類産業を支えてきた縫製工場街だったからだ。韓国の生活水準が少しずつ上がっていった60年代から70年代、衣類の流通拠点だった平和市場に近い昌信洞には、雨後の筍のように縫製工場ができた。韓国全土から職を求めてやってきた若者たちが集まって、職住一体型の生活圏ができあがっていった。

 当時の過酷な労働状況は、大邱(テグ)からこの街にやってきたチョン・テイル(1948~1970)という若者に関する著作や映画を通じて語り継がれ、労働運動や民主化運動の象徴的存在として、今ではこの町にはチョン・テイル財団ができ、近くの清渓川には彼の銅像が建てられている。

ミシンとバイクの音が交差する

 東大門駅の1番出口を出て、北方向の路地に入ると、現役の縫製マウルが見えてくる。一見ふつうの住宅街のようだが、商店や多世帯住宅、韓屋など多様な形の建物の1階、2階、地下は今も縫製の現場である。昔のような規模ではないが、零細工場を中心に1000軒もの工場が稼働している。東大門市場で売られている多くの服がここで縫われているのだ(写真)。

 

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 戸のすきまからはドゥルル、ドゥルル~っというミシンの音がもれ、冬場はスチームアイロンの白い蒸気が立ちのぼる。電柱や壁には「○○募集、ミシン職人、ミシン職人補助」などのチラシが無雑作に貼られている。そこを生地やボタン、ファスナーなどを積んだオートバイが急勾配を曲芸のように走り抜けていく。ミシンの音とバイクの音はこの街の景気と比例する。

激辛豚足や怪しい揚げ物で一杯

 

 東大門駅の3番出口を出てそのまま進み、最初の路地を左折すると昌信市場に出る。南北に200メートルほど延びた、幅わずか4メートルほどの通りを挟んで、小さな飲食店や惣菜店が寄り添うように並んでいる。

 惣菜店の店先に見慣れない揚げ物が盛られている。鶏の足? いや、このガニ股はカエルだ。我が国がまだ発展途上だった私の子供時代によく見かけたこのたんぱく源が、昌信洞ではまだ現役だ。肉質は鶏のササミのようで、臭みはまったくない。

 日が暮れると、勤め帰りに晩ご飯の買物をするおばさんたちや、まっすぐ帰宅できない飲兵衛たち、そして、かつての韓国の地方から集まって来た若者たちの代わりを務める中国や東南アジアからの労働者たちで市場は賑わっている(写真)。

 

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 昌信市場はもともと地元民のための生活市場だが、外部からも人が訪れるようになったのは、チャンメチョク(昌信洞のメウン=辛い、チョッパル=豚足)のおかげだ。この市場で原色の赤い看板を掲げているのはほとんどがこの激辛豚足の店だ。まっかな薬味ダレにくぐらせた豚足を網で焼いて出してくれる(写真)。

 

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 ひと口かじる。辛さで麻痺した舌を焼酎で洗う。いや、洗えない。火に油だ。辛さは味覚ではなく痛覚とはよく言ったものだ。生ニンニクをかじる。そしてまた豚足に食らいつく、焼酎を流し込む。カーッ! 思わずおじさんのような唸り声が出てしまう。

 残業を終え、通行禁止となる零時までの短い時間、一気に酒をあおって酔っぱらってストレスを発散した70年代の飲み方だ。背筋も伸ばせない蚕棚のような工場で、1日14時間も働いた裁断師や見習いたちもこんな飲み方をしたのだろうか。

アジアンレストランと最古の汗蒸幕

 昌信洞の大通りや路地を歩くと、インドやネパール、中国東北部の料理を出す食堂がやたらと目につく。縫製工場で働く外国人労働者の増加とともに、彼らに故郷の味を提供する店も増えたのだ。東大門駅3番出口の近くにあるインド・ネパールレストラン『エベレスト』は、この辺りのアジアンレストランの最古参で、最近では韓国人にも人気がある。

 その隣には韓国最古の伝統サウナ施設といわれる「トンホ汗蒸院」がある。入口に積まれた薪が昔ながらの汗蒸幕であることを物語っている。外観は今どきの豪華なサウナと比べるとずいぶん見劣りがするが、ミシン作業で疲れた体を癒し続けた労働者の楽園だった。筋肉痛や皮膚病によく効くと長年通い続ける常連客も多い。

採石場の痕跡、絶壁住宅

 昌信洞には“岩山マウル”とか“絶壁マウル”という別名がある。これはかつてこの地にあった採石場に由来している。日本植民地時代(1910~1945)は、首都京城(ソウル)に西欧式の建築物を作るために多くの石材が必要で、岩山のあった昌信洞はその供給源だった。

 発破音と岩を砕く槌の音が鳴り響いたその時代、ここから運び出された石材は、1995年に撤去された朝鮮総督府庁舎をはじめ、今もその姿をとどめる京城駅(旧ソウル駅舎)や京城府庁舎(現ソウル市庁舎)など、当時、京城の顔だった近代建築物の基礎になった。

 60年代後半に採石場は閉鎖されたが、石材の切開が行われていた切り立った絶壁はそのままだ。閉鎖後の60~70年代、平地に住めなかった貧しい人たちが無許可で建てた家々が改装を経て今も残っている。こんな場所に家を建てざるをえなかった切迫さがこの特異な風景を作り出している(写真)。

 

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 絶壁に至る曲がりくねった急坂、通称“嵐峠”(写真)を登ってみる。滑り止めのスロットが乱暴に刻まれた急勾配がヒールを拒絶する。息が切れる。険し過ぎるその坂道は、昌信洞の強靭な生命力を表しているようだ。

 

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*本連載は月2回配信(第2週&第4週金曜日)の予定です。次回もお楽しみに!

 

 

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紀行作家。1967年、韓国江原道の山奥生まれ、ソウル育ち。世宗大学院・観光経営学修士課程修了後、日本に留学。現在はソウルの下町在住。韓国テウォン大学・講師。著書に『うまい、安い、あったかい 韓国の人情食堂』『港町、ほろ酔い散歩 釜山の人情食堂』『馬を食べる日本人 犬を食べる韓国人』『韓国酒場紀行』『マッコルリの旅』『韓国の美味しい町』『韓国の「昭和」を歩く』『韓国・下町人情紀行』『本当はどうなの? 今の韓国』、編著に『北朝鮮の楽しい歩き方』など。auポータルサイトの朝日新聞ニュースEXでコラム「韓国!新発見」連載中。株式会社キーワード所属 www.k-word.co.jp/

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