アジアは今日も薄曇り

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#04

台湾〈4〉嘎拉賀野渓温泉

文・下川裕治 写真・廣橋賢蔵 

谷底の秘境温泉をめざすが……

 梵梵野渓温泉で台湾の秘境温泉の味をしめた。河原に湧き出る温泉を溜め、川の水を流し込んで温度調節をするだけの温泉。これは究極の露天風呂ではないか。日本にも、これに似た温泉はあるだろうが、その手つかず感がまったく違う。

 台湾の温泉案内人の廣橋賢蔵さんによると、台湾には、この種の温泉がいくつもあるのだという。梵梵野渓温泉に続いて、嘎拉賀(がらほ)野渓温泉をめざすことにした。車は山道をぐいぐい進み、温泉の入り口にある嘎拉賀という集落に着いた。そこから舗装はされているが、幅2メートルほどの急なくだり坂の道が続いていた。息を切らしながら登ってくる何人かいた。嘎拉賀野渓温泉に浸かってきたのだという。

「急な山道を1時間ほどくだった谷底に温泉はあります。坂道、きついですよ」

 台湾の人たちの話を廣橋さんが翻訳してくれる。

 谷底?

 そんな話は聞いていなかった。谷底ということは、温泉に入った後、山道に汗をかきながら登らないと戻れないではないか。少し後悔した。のんびり野渓温泉を楽しむという雰囲気をイメージしていたのだが。

 若い頃からよく山には登った。最近は足の筋力が落ち、思うような登山はできないが、山道と聞くと、「自分の世界だ」と意気に感じるようなところがある。行ってみようじゃないか……などと足の屈伸運動をはじめてしまうのだ。

 坂道は急だった。落ちた木の葉が前日の雨に濡れ、そこを踏むと滑る。しかし舗装されている。岩がむき出しになった日本の北アルプスの道とは違う。

 しかし、そんなことをいっていられたのは、最初の20分だった。舗装された道は突然終わり、本格的な登山道になった。階段状になったところもあるが、周囲の木の枝をつかまないとくだることができない急なところが多い。足や腕に力を入れるため、汗が噴き出てくる。なかなかきつい。60歳半ばの足腰にはかなり応える。道はくだるにつれ、さらに急になっていった。

 眼下に渓流が見えてきた。三光渓という川で、嘎拉賀野渓温泉はそこにあるという。沢の音も耳に届くようになった。しかし道はさらに険しくなった。三光渓が削った崖にさしかかっていた。足を滑らせると、一気に谷底に落ちていってしまうような道になる。疲れが溜まった膝ががくがくと震える。

 こんな道を歩いて温泉に行くのか……。

 汗を拭いながら、なにもここまでして……と呟いてしまう。

 

1

こんな崖の道を伝って温泉に行きます? 普通は行きません(撮影・中田浩資)

 

 さらにくだった。眼下に嘎拉賀野渓温泉が見えた。滝が勢いよく流れ落ちている。その滝つぼに浸かっている人がいる。どうもあそこが温泉らしい。しかしその前には、流れの速い川があった。そこを渡るらしい。

 崖に足を渡し、さらにくだる。と、切り立った崖の上にでた。ところどころが崩れた梯子がとりつけられていた。そろり、そろりとくだっていく。やっと河原に出た。持参していた水を一気に飲みながら、溜め息をついた。

 河原にへたり込んでしまった。対岸の滝をぼんやり眺める。

「じゃあ、行ってきます」

 廣橋さんは水着に着替え、バシャバシャと川を渡っていく。その先すぐに温泉があるわけではない。さらに崖にへばりつくように伝って、ようやく滝つぼに辿り着く。

 悩んでいた。川を渡ろうか……。

 帰りの山道を考えていた。くだりでこれだけきついのだ。それを登っていかなくてはならない。これが精神的にきつい。

 温泉というものは、「そこであがり」という感覚が僕にはある。山をくだり、谷の温泉宿にザックを置いて、湯に浸かる。あれは快感である。後にはビールも待っている。そしてのりの利いたシーツが敷かれた布団……。

 温泉とはそういうものではないか。いくら嘎拉賀野渓温泉の湯がいいからといって、浸かった後、1時間半、いや2時間、急な山道に汗を絞らないと近くの村には着かないのだ。

 対岸の滝つぼに浸かる廣橋さんが手を振っている。どういう感性なのだ。台湾に長く住み続けたことがいけないのではないか。日本人の温泉の楽しみ方を忘れてしまったのではないか。

 川は渡らなかった。つまり温泉には入らなかった。テンションがあがらないのだ。戻ってきた廣橋さんの、「流れる滝が温泉なんですよ。滝つぼもいい湯加減」という言葉も気持ちを動かさなかった。この人は帰りの山道のことを忘れているのではないか。

 首うなだれ、山道を登りはじめた。途中、何度も休んでしまった。谷を渡る鳥の声が心に届いた。

 

2

この滝そのものが温泉。先のことを考えない性格の持ち主なら楽しめる

 

嘎拉賀野渓温泉に向かう途中で寄った下巴陵温泉。ある程度、客が集まらないと浴槽に温泉を入れないケチな温泉だった


 

 

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*本連載は月2回(第2週&第4週木曜日)配信予定です。次回もお楽しみに!

 

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著者:下川裕治(しもかわ ゆうじ)

1954年、長野県松本市生まれ。ノンフィクション、旅行作家。慶応大学卒業後、新聞社勤務を経て『12万円で世界を歩く』でデビュー。著書に『鈍行列車のアジア旅』『不思議列車がアジアを走る』『一両列車のゆるり旅』『東南アジア全鉄道制覇の旅 タイ・ミャンマー迷走編』『東南アジア全鉄道制覇の旅 インドネシア・マレーシア・ベトナム・カンボジア編』『週末ちょっとディープなタイ旅』『週末ちょっとディープなベトナム旅』『鉄路2万7千キロ 世界の「超」長距離列車を乗りつぶす』など、アジアと旅に関する紀行ノンフィクション多数。『南の島の甲子園 八重山商工の夏』で2006年度ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。WEB連載は、「たそがれ色のオデッセイ」(毎週日曜日に書いてるブログ)、「クリックディープ旅」、「どこへと訊かれて」(人々が通りすぎる世界の空港や駅物)「タビノート」(LCCを軸にした世界の飛行機搭乗記)。

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