三等旅行記

三等旅行記

#02

林芙美子の人生Ⅱ

文・神谷仁

「 婚外子“フミコ”として役場に届けられた 」

 

 さて、林芙美子の『三等旅行記』の連載を始める前に、まず彼女の生い立ちからパリの旅へと出発するまでを紐解いてみたいと思う。そこにはなぜ彼女が旅を愛するに至ったか、という秘密が隠されているからだ。

 芙美子が生まれたのは、1903(明治36)年12月31日。しかし、これはあくまで戸籍上の事で、実際には異なっているようだ。出生地も芙美子本人の随筆などでは、山口県の下関と語られていたが、研究の結果他、現在では北九州の門司であろうと言われている。
 芙美子は母・林キクの婚外子〝フミコ〟として役場に届けられた。実父である宮田麻太郎はキクの14歳年下の男だった。麻太郎は下関で商売をしており、幼少時代の芙美子はそれなりに裕福な暮らしを送っていたようだ。
 そんな生活は1910年に一変する。麻太郎は芸者と同居を始め、キクは麻太郎の店で働いていた20歳年下の男性・沢井喜三郎とともに家を出てしまったのだ。
 その後、芙美子たちは木賃宿を転々としながら行商をして口に糊をしていった。

 

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 直方の町は明けても暮れても煤けて暗い空であった。砂で漉した鉄分の多い水で舌がよれるような町であった。大正町の馬屋と云う木賃宿に落ちついたのが七月で、父達は相変らず、私を宿に置きっぱなしにすると、荷車を借りて、メリヤス類、足袋、新モス、腹巻、そういった物を行李に入れて、母が後押しで炭坑や陶器製造所へ行商に行っていた。
 私には初めての見知らぬ土地であった。私は三銭の小遣いを貰い、それを兵児帯に巻いて、毎日町に遊びに出ていた。門司のように活気のある街でもない。長崎のように美しい街でもない。佐世保のように女のひとが美しい町でもなかった。骸炭のザクザクした道をはさんで、煤けた軒が不透明なあくびをしているような町だった。駄菓子屋、うどんや、屑屋、貸蒲団屋、まるで荷物列車のような町だ。その店先きには、町を歩いている女とは正反対の、これは又不健康な女達が、尖った目をして歩いていた。七月の暑い陽ざしの下を通る女は、汚れた腰巻と、袖のない襦袢きりである。夕方になると、シャベルを持った女や、空のモッコをぶらさげた女の群が、三々五々しゃべくりながら長屋へ帰って行った。
 流行歌のおいとこそうだよの唄が流行っていた。
              (放浪記より)

 

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芙美子たちが下関に落ちついたのは1916(大正5)年のことだった。
 この地で尋常小学校に通った芙美子は、教師に作文と図画の才能を認められ、女学校への進学を勧められた。
 その教師の指導もあり芙美子は1918(大正7)年に尾道市立高等女学校へ進学した。初めての恋をしたのもこの頃だったようだ。
 
 

 

1林芙美子岩下撮影

尾道市にある林芙美子が当時暮らしていた家

 

 

 

2林芙美子岩下撮影
2階は芙美子が過ごした部屋で芙美子の着物が飾られている

 

 

 

 

 

尾道・子どもと
女学校卒業の頃の芙美子。友人の姪っ子と

 

 

 

芙美子は女学校では多くの本を貪るように読み、夜や休日は女工や女中のアルバイトをして学費を稼いだ。
 そんな生活と様々な出会いが彼女の文学的才能に大きな影響をもたらした。4年生になる頃には、秋沼陽子のペンネームで地方新聞に詩や短歌を投稿して掲載されるなど、この頃には既に作家・林芙美子の萌芽は始まっており、同時に彼女は、都会の憧れを募らせ、女学校卒業と同時に東京へと旅立った–。
 


*この連載は毎週日曜日の更新となります。次回更新は8/21(日)です。お楽しみに。           

                                                                                                 

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林 芙美子

1903年、福岡県門司市生まれ。女学校卒業後、上京。事務員、女工、カフェーの女給など様々な職業を転々としつつ作家を志す。1930年、市井に生きる若い女性の生活を綴った『放浪記』を出版。一躍ベストセラー作家に。鮮烈な筆致で男女の機微を描いた作品は多くの人々に愛された。1957年に死去。代表作は他に『晩菊』、『浮雲』など。

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