アジアは今日も薄曇り

アジアは今日も薄曇り

#02

台湾〈2〉警光山荘

文・下川裕治 写真・廣橋賢蔵 

日本統治時代の警察官たちの温泉

 川筋に沿った一本の道をのぼっていく。谷を詰めていく感覚だ。しだいに台湾という島を背骨のように貫く中央山脈が迫ってくる。亜熱帯の木々に覆われた山はなかなか深い。人を寄せつけないような神々しさすら漂っている。

 やがてその道は、壁にぶつかるように終わってしまう。そこにある一軒の温泉……。それは日本人の僕にとっては、まさに秘湯だった。最初に訪ねた清泉温泉はそんな立地だった。この温泉には、長く張学良が幽閉されていたという歴史まで仕組まれていた。

 台湾の全温泉を制覇するつもりはなかった。知人の廣橋賢蔵さんが、その隘路を埋めていくことに執念を燃やしていた。その旅につきあうつもりはなかった。しかし道のどん詰まりに唐突に現れる温泉のイメージは強かった。ぐいと引き込むような吸引力があった。

 これはいったいなんなんだろう。

 その思いを消せないまま、廣橋さんの運転する車に乗っていた。清泉温泉から北埔冷泉に向かった。内湾という街に近い山のなかにある。しかしその冷泉は水たまりに映った。湯も汚れているように映る。案内板の説明によると、それは汚れではなく、温泉の成分のためだという。しかしどう見ても泥水……。しかし廣橋さんは、そんな水にもしっかり身を沈める。全温泉制覇をめざす人は気合が違う。僕は足湯でお茶を濁してその先に向かう。車はそこから南下し、汶水渓と呼ばれる川に沿った道に分け入っていった。再び、道のどん詰まりにある温泉をめざすことになる。

 その日は虎山温泉に泊まり、翌朝、さらに山道をのぼっていく。タイヤル族という台湾の先住民族の世界に入っていく。グーグルマップをナビ代わりにして進んでいった。泰安温泉を通りすぎ、グーグルマップ上では道がなくなる地点まで詰めた。と、そこに、泰安温泉という小さな看板が立っていた。

「この先にまだ温泉がある?」

 崖に沿うような急坂をのぼる。道は大きく曲がり、さらに急な坂にエンジンを吹かすと、目の前に日本風の建物が見えてきた。まさにどん詰まり。背後は険しい山である。そこに温泉があった。

 泰安警光山荘──。入り口にはそう書かれていた。警の文字から想像がつくように、警察官の保養所である。建物は日本の老舗旅館を思わせる。日本の統治時代に建てられていた。日本の警察官向けの施設だったのだ。

 内部も日本だった。入り口で100元、約350円を払って浴室に向かう。日本の日帰り湯にきたような感覚である。浴室も男女にわかれていて、入口には、「男湯」と「女湯」というのれん。つまり日本式に裸で入ることができる。

 湯はかなり熱かった。いい湯である。やってくるのは地元の人ばかりだった。皆、銭湯感覚でやってくる。

 湯に浸かりながら、通路に貼ってあった昔の写真を思い出していた。そこには、この温泉周辺に赴任した日本人の警察官の姿が映っていた。学校の校庭で開かれた柔道大会の写真もあった。家族の記念写真もあった。その横には、この一帯に置かれた駐在所の地図が掲げられていた。日向駐在所、モギリ駐在所……。その場所は、この温泉よりさらに奥だった。

 奥……。そこは先住民が暮らす世界だった。台湾を植民地にした日本は、都市には日本軍を配備したのだろうが、山中の先住民世界と対峙したのは警察官たちだったのだ。先住民のなかには、日本支配に反発する部族も多かった。

 

P5090168

浴室に向かう廊下の壁に、日本統治時代の写真が並んでいた

 

P5090163

浴槽は完全に日本式。台湾のかけらもない。入っている人はもちろん裸

 

 この日、さらに南下しは、埔里を経て廬山温泉に向かた。その途中に霧社があった。

 先住民が日本人を襲った霧社事件は悲惨だった。霧社事件は2回起きている。1回目は先住民のセデック族が、駐在所や学校の運動会を襲った。運動会では、和服を着た日本人が標的になり、132人の日本人が殺された。日本軍や警察が鎮圧するが、約700人の先住民が死亡したといわれる。

 2回目の霧社事件はさらに悲惨だった。日本に反発する先住民と日本寄りの先住民の闘いに発展してしまうのだ。1回目とはけた違いの犠牲者が出た。彼らには勝者が敗者の首を狩る習慣があった。山中の村に、累々と並ぶ人間の頭部の写真が残っている。

 2回目の霧社事件を画策したのは日本軍だったといわれる。実際に山のなかの駐在所に勤務し、先住民と接していった警察には、そこまでの権力は与えられていなかった。

 先住民の村に駐在した警察官が、山から出てきたところに建てられた温泉が警光山荘だった。ここから下は、日本の支配地域という感覚があった気がする。車道の終点につくられた温泉。秘湯にはそんな経緯が潜んでいた。

 

警光山荘から南下する途中で寄った麒麟峰温泉。ここにも警光山荘と同じような裸で入る温泉があった


 

●好評発売中!

双葉文庫『東南アジア全鉄道制覇の旅 インドネシア・マレーシア・ベトナム・カンボジア編』

発行:双葉社 定価:本体657円+税

 

東南アジア全鉄道2書影

 

*本連載は月2回(第2週&第4週木曜日)配信予定です。次回もお楽しみに!

 

se-asia00_writer

著者:下川裕治(しもかわ ゆうじ)

1954年、長野県松本市生まれ。ノンフィクション、旅行作家。慶応大学卒業後、新聞社勤務を経て『12万円で世界を歩く』でデビュー。著書に『鈍行列車のアジア旅』『不思議列車がアジアを走る』『一両列車のゆるり旅』『東南アジア全鉄道制覇の旅 タイ・ミャンマー迷走編』『東南アジア全鉄道制覇の旅 インドネシア・マレーシア・ベトナム・カンボジア編』『週末ちょっとディープなタイ旅』『週末ちょっとディープなベトナム旅』『鉄路2万7千キロ 世界の「超」長距離列車を乗りつぶす』など、アジアと旅に関する紀行ノンフィクション多数。『南の島の甲子園 八重山商工の夏』で2006年度ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。WEB連載は、「たそがれ色のオデッセイ」(毎週日曜日に書いてるブログ)、「クリックディープ旅」、「どこへと訊かれて」(人々が通りすぎる世界の空港や駅物)「タビノート」(LCCを軸にした世界の飛行機搭乗記)。

紀行エッセイガイド好評発売中!!

東南アジア全鉄道制覇1cover

東南アジア全鉄道制覇の旅

タイ・ミャンマー迷走編

se-asia00_book01

鈍行列車のアジア旅

se-asia00_book02

不思議列車がアジアを走る

se-asia00_book03

一両列車のゆるり旅

アジアは今日も薄曇り
バックナンバー

その他の辺境・秘境の旅

ページトップアンカー