日本一おいしい!沖縄の肉食グルメ旅

日本一おいしい!沖縄の肉食グルメ旅

#02

ウシマチサガイ(牛町下り)を歩く

文・普久原朝充

 

 沖縄には豊かな豚食文化の伝統があり今でもその伝統を守り続けているという漠然とした自己イメージがあった。でも、調べてみると豚食文化が一般化するのは18世紀半ばとの説が出てきたので驚いた。この伝統を長いと感じるか短いと感じるか。

 意外と短いと私には感じられた。豚食が一般化する以前、労働力にもなる牛の屠畜が禁止される17世紀までは牛食の方が一般的だったようだ。おそらく、その名残りであろう地名を街歩き中に偶然みつけることができた。

 そんな戦前の沖縄の地名を探りながら、そこで行われていたであろう牛や豚の流通、屠蓄、売買などから当時の人びとの生活を垣間見たいと思う。

 

昔の那覇はどんな町だったのか

 昔の那覇は周囲を海で囲まれた小さな島で浮島と呼ばれていたらしい。らしいというのも、文献上でしか知らない事実だからだ。琉球王朝の時代から拡張埋立てが続き、すでに沖縄本島と陸続きとなった後に生まれた私には、浮島のカタチが思い浮かばない。さらには戦後の二市二村(那覇市、首里市、真和志村、小禄村)合併によって市域が広がった歴史も知らなかったので、本来は現在の那覇市行政区域のほんのごく一部を指す言葉だったということを知ったのは、大学を卒業する間際だっただろうか。

 国土地理院の管理している基盤地図情報のデジタル標高データを利用してつくられた旧那覇付近の精細な段彩図(地盤高さ毎に色を塗り分けた地図)を確認してみると、薄っすらと那覇が浮島だった頃の名残りが見えてくる。

 辻原墓地など主な丘陵地は戦後に米軍のブルドーザーにより均されてしまうのだけれど、かろうじて開発を逃れた旧跡や御嶽(拝所)が浮き出るように戦前の那覇の地形を感じさせてくれた。このわずかな手がかりを基に、旧那覇の地図と比較しながら歩いてみた

 

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1800年頃の那覇の海岸線/出典:名嘉山光子氏論文『那覇付近の埋立てによる拡大』〈『琉大地理 第6号』(琉球大学地理研究クラブ、1967年12月)に所収〉を元に著者が加工しています。

 

 旧那覇について知るには、まず交通や物流の要である港を理解するのが手っ取り早い。自動車のない時代において多くの人材や大量の物資を運ぶのに都合よい手段は船だった。旧那覇は北に安里川からの水が流れ込む泊港、南には国場川や饒波川が合流する那覇港に挟まれていたために好都合な場所と考えられたようだ。

 とりわけ那覇港には唐口・倭口・宮古口と呼ばれる珊瑚礁の切れ目があり、大船の出入りが可能な航路として現在も使われている。

 

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微地形地図から読む旧那覇史/「カシミール3D スーパー地形セット」(http://www.kashmir3d.com/)により著者が作成しています。

 

 那覇港の西側に三角状に浮き出た場所は三重城(ミーグスク)と呼ばれ、海からの玄関口だった。現在のロワジールホテルの裏手にひっそりと佇んでいるが、そこが戦前の那覇の突端であった。対岸には屋良座森城(ヤラザムイグスク)があり、敵の侵略時には両側から鎖を引っ張って封鎖し那覇港内への侵入を防ぐことができるようになっていたらしい。

 

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現在の三重城(ミーグスク)。

 

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三重城より那覇港に入る船(対岸は屋良森城跡)。

 

 当初は浮島の那覇港側に隣接するように那覇村があったそうだが、後に西村と東村にわかれるようになった。これに若狭町村と泉崎村を加えた「那覇四町(なふぁゆまち)」が狭義の那覇とのことだ。明治期に泊村・久米村・久茂地村などが加わり市政となる。

 各村には特色がある。西村には官公庁施設が集積し、東村は市場が発展していく。若狭町村は挽物細工を扱う家内工業の村で、泉崎は住宅地だった。

 西村から三重城まで延びる堤防と「ながはま」と呼ばれる辻原西側崖下の砂浜に挟まれた一帯は海だった。西村の海という意味で「西の海」と呼ばれ、なだらかな浅瀬が大正期まであった。その西の海を臨む西村の波打ち際が今回の舞台だ。牛や豚がこの地に運ばれ、屠畜され、売られていくまでが浮島内で簡潔している。その様子をみてみたい。

 

 

牛を売買する市場、ウシマチサガイ

 某日、古地図を片手に旧那覇の街を歩いた。戦後の開発で碁盤目状に区画整理された土地に残ったわずかな起伏を足の裏で感じながら、当時の名残りを確認する。

 その折、現在の西町の真教寺のある付近で「ウシマチサガイ(牛町下り)」という地名に気づいた。他の古地図なども確認すると付近には「豚小市」「屠豚場」などの名称の場所もある。

 

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かつて、ウシマチサガイのあった場所。

 

 さかのぼってみると、1713年に編纂された『琉球国由来記』の西村の項に「牛町(是ハ往昔、売買ノ牛ヲ、此所ニツナギ置キタルトナリ。牛ヲカケタル石、今ニアリ)」という記述をみつけることができた。

 どうやら牛を売買する市場があったようだ。『琉球国由来記』が編纂された頃までは牛をつなぎ留める石があったとされているが、その他の地誌を探してもそのような記録はみつけられなかった。この石はいつ頃まであったのだろうか。

 17世紀半ばから牛の屠畜禁止令が度々出されていたようなので、『琉球国由来記』に残った牛町の地名は、牛食文化から豚食文化へと移行する過渡期だったことがわかる。中国からの冊封使をもてなす上で大量の豚肉を必要としたことから、養豚が推奨されるようになった為、牛町周辺は豚を取引する場所へと変わっていく。

「サガイ(下り)」とは海に向かって傾斜している波打ち際の一帯を指している言葉で、西村の海岸線にはウシマチサガイが、島の反対側である東村の海岸線にはヒガシサガイ(東下り)があった。ウシマチサガイには粟国島、渡名喜島からの牛や豚を、ヒガシサガイには山原や慶良間島からの材木を荷揚げするなど使い分けていたようだ。

 三重城に向かう堤防には小橋・大橋・仲の橋(臨海橋)・継橋の四つの橋があり、小橋の下が久米島船、大橋の下が粟国島・渡名喜島船という風にそれぞれの船着となっていた。その後、大正、昭和の埋立て拡張で港としてより整備されていく。

 那覇を訪れる際、近場で歩いて日帰りできる場合は問題ないのだが、離島や遠隔地からとなると数日がかりとなってしまう。明治を迎える以前は、代々出生地に定住するよう義務づけられていたので、宿を頼ることのできる遠隔地の親戚縁者等も存在しなかった。そのため、港近辺には「宿小(ヤールグヮー)」と称される宿泊所が発達していた。宿名にはそれぞれ島名や村名が付いていて、その出身地以外の人は宿泊できないという一風変わった仕組みになっていた。

 牛豚を船から荷揚げして牛町・豚市で売りさばき、那覇で生活雑貨を揃え、同郷の人だけが泊まる宿泊所を利用して後日離島へと帰っていく生活の距離感が見えてくる。豚市で売りさばいた後も、買い手が精肉として売りきるまで代金が支払われないことも多かったらしく、十数日も港に船を浮かべて支払いを待つこともあったそうだ。

 当時、沖縄では色の黒い在来豚を「島豚(シマウヮー)」やアグーと呼んでいたらしい。現在、ブランド豚として「あぐー」の商標で登録されているが、もともと地域ごとに差異があり、必ずしも一般的な呼び方ではなかったようだ。宮古馬や与那国馬など在来家畜には産地名を冠するものが多いため、このアグーの呼び方は粟国島に由来するとする説がある。当時の那覇における豚の荷揚げ風景を想像すると最もらしく聞こえてくるが、いまだ正確な起源はわからないようである。

 

 

遊廓の子豚の役割とは

 現在の波之上宮の参道前の通りに平行する道に出ると、辻開祖の墓のある小高い一角がある。そこは元遊女だった上原栄子が交渉により一足早く『料亭松乃下』を建てることで、米軍による区画整理を逃れて戦前の地形を残すことができた場所でもある。

 かつてその一帯には、西村と若狭町村の間の丘陵地にあたり辻遊廓があった。辻遊廓は売春だけを目的としていたわけではなく、歌や踊り、料理などのもてなしの文化を支えた地域でもあった。もてなし料理にも欠かせなかった豚だが、農村だけでなく辻遊廓でも飼われていた。廓の裏手には豚便所(ウヮーフール)があり、豚は人間の残飯や糞尿の処理の役割も担っていた。

 人々はまだ貧しく公的な社会保障も存在しない時代は、口減らしとして人身売買されることもあった。男にはイチマンウイ(糸満売り)、女にはジュリウイ(尾類売り)という言葉があった。男は漁師の町である糸満に売られて漁夫に使われ、女性は辻遊廓に売られて遊女(尾類)となる。辻に売られたばかりの客をとることのできない少女たちは、豚の世話をするのが仕事だった。年少の子は豚の餌となる芋皮を付近住民から買い集めるのが日課だったので「ウムガーコーヤージュリグヮー(芋皮を買う尾類の子)」と呼ばれていたらしい。

 大正5年から豚小屋を壊して共同便所を作るとの県令が届き、大正8年の辻の大火でそのほとんどが無くなったとされる。ウムガーコーヤーの仕事もそれと共に消えた。

 ウシマチサガイからほど近い、西村と辻の境には石門(いしじょう)と呼ばれる場所があり、その角には子豚市場があった。子豚市場の隣には「クバチカサ(久場司)の御嶽」という拝所がある。辻町前村渠(メーンダカリ)の尾類馬行列の経路として「旧小豚市場の『御拝所』に参拝」という記録が出てくる。

 クバの名がつく御嶽は数多くある。クバは蒲葵(びろう)のことで、沖縄では神木として扱われていた。神の島との呼び名も高い久高島も古くはクバジマと称され、島内には今もクボー御嶽がある。

 このクバチカサの御嶽の隣にあった子豚市場では、主に生後90日で乳離れした豚が運ばれて売りさばかれていた。その子豚市場の前から潮の崎(スーヌサチ)という岬に向かって延びる辻の通りは前ヌ毛通りと呼ばれ、精肉を扱う市場が立っていたという。

 

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かつて子豚市のあった場所。

 

 衛生管理上の理由から明治39年(1906年)に屠場法が施行される。これによって牛・馬・豚・山羊の屠畜が公的管理下に置かれるようになり、各家庭で行われていた牧歌的な屠畜が制限されるようになった。

 1932年の『新版沖縄案内』(島袋源一郎著)によれば、屠畜場が県内に20ヵ所あったとされる。那覇においては潮の崎の崖下に屠畜場があり、そこで屠畜解体することが義務付けられることとなった。その後、大正3年(1914)に屠畜場の隣に子豚市場を移設し、前ヌ毛通りの精肉市場も東町市場に統合されている。

 東村には天使館と称される中国冊封使の滞在施設があった。その近くには当時から交易品もごった返し那覇一番の賑わいをみせる東町市場があった。そこで特に冊封使たちの目を引いたのは、市場の働き手の多くが女性だったことだされている。「この島の男性はどこで何しているんだろう?」と思ったのかもしれない。現代においても本土から来た人によく尋ねられるのだが、私の気のせいだろうか。

 そんな女性の働き手が多いの市場内に肉市(シシマチ)ができた。そこだけは、働き手が男性で、とりわけ小禄村の出身者が多かったそうだ。やはり、重量のある精肉類を扱うのは女性には難しかったということだろう。

 現在の豚は生体で約120キログラム程度になるまで育てる。内臓類を分けて半分に割って枝肉にするとして、半身で45キログラム程度になるだろうか。当時の島豚は現在の豚より小柄だったと想定しても、35~40キログラム程度かもしれない。

 早朝、潮の崎崖下の屠畜場で解体して、東町の市場まで運ぶことを考えると、男性でも結構な苦労だったろうと想像した。屠畜、販売を兼業している人も多かったようなので、生体の豚を屠畜場に運ぶのも大変だったのではないだろうか。

 

 

那覇市の新たな玄関口・若狭は職工の町だった

 若狭は、新たな那覇市の玄関口になりつつある。那覇うみそらトンネルによって那覇港を跨いで那覇空港前と直結されるようになった。さらに、バースには10万トン超の豪華客船も停泊するので、そこに琉球王朝時代の龍柱をモチーフとしたモニュメントが出迎えるようになっている。しかし、かつての若狭町村は琉球漆器を製作する職工の町だった。

 琉球漆器の生産は若狭町だけに限られていたそうだ。若狭海岸を前にしており、国頭などから山原船で運ばれてくる木材を調達するのに都合がよかった。「東道盆(トゥンダーブン)」と呼ばれる一種の宴会用オードブル皿があるが、漆製のものが多い。士族が多く住む久米村や泊村、宴席を持つ機会の多い辻からも近いので、注文も多かったのかもしれない。さらに、屠畜場からも近かった。

 それは、下地材の原料に豚血が使われていたからで、沖縄特有の手法だったようだ。ちなみに、琉球漆器は朱色の映えたものが多いので勘違いしがちだが、豚血下地はあくまで下地材なので上塗り材の定着が目的であって、朱塗の鮮やかさとは関係がないとのことである。

 王朝時代は「貝摺奉行所」という漆器製作所で主に漆下地で製作していたが、廃藩置県以降に民間工房での漆器製作が盛んになり、手軽に仕入れることのできた豚血下地が主流になった。下地材は、方言で「クチャ」と呼ばれる粘土に、豚血と酸化鉛を少量入れて熱した桐油を加えて作られる。クチャは、沖縄本島中南部に多い泥灰岩で、建築土木では基礎や杭を検討するときにクチャを支持層の目安にするので、今でもこの名称をよく使っている。当時は首里、真和志、小禄から採って饅頭型に乾燥させたものが手頃な価格で売られていて、洗髪用にも使われていたそうだ。

 豚血は鮮度の高いものが求められたので、毎朝、若狭から辻を越えて屠畜場まで豚血を買いに行くのが、当時の若狭の子どもの日課だった。

 この豚血下地は戦後も用いられたが、1960年代頃から油性合成漆下地に移行して現在ではほぼ使用されていない。

 

 

ウシが地図から消えた日

 西の海は、潮の崎下の屠畜場を建設に際して一部埋立てられた後、さらに大正、昭和と拡張工事が続き消えてしまった。西村は西町と名称を改めていたが、埋立てで土地が広がったため、それまでの西町を西本町とし、埋立地側を西新町と称すようになった。

 埋立てによって波打ち際を意味したサガイも消え、1944年の十・十空襲によって灰燼に帰した。戦後しばらくは米軍に占有され、数度に分けた開放後の土地区画整理によってかつて街路跡も消えた。世代も変わりつつあって、もはや人の思い出にも残らない。今そこで住まう者にとっても懐かしさすら感じなくなった。

 

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三文殊公園の高台(潮の崎)より崖下は、かつて海だった。

 

 浮島と呼ばれた過去の風景を、牛や豚に関わる様々な生活者の視点で整理してみたがいかがだっただろうか。粟国島、渡名喜島から牛豚を運ぶ人々、豚を世話する辻遊廓の少女、豚血下地を用いて琉球漆器を製作する若狭の職工の例をとりあげてみた。これらを含めた多様な人々が、ウシマチサガイを中心とした半径1キロメートルにも満たない徒歩10分圏内で生活していた。牛から豚へと食文化が変わりつつも、流通や屠畜解体などの場所的な特性を引き継いでいたこともうかがえたが、それらすべてを焼き尽くしたのが戦争だった。

 現在の那覇市の街路上には旧所・旧跡の案内板が立っており、旧那覇の名所を意識しながら歩くことができるようになっている。当時の面影はほぼ無くなってしまっているけれど、わずかな土地の起伏や距離感を意識しながら訪ねてみることをお勧めする。浮島の風景を思いめぐらすうえで参考になると思う。

 

 

*本連載は、仲村清司、藤井誠二、普久原朝充の3人が交代で執筆します。記事は月2回(第1週&第3週木曜日)配信予定です。次回もお楽しみに!

 

*本連載の前シリーズ『爆笑鼎談 沖縄ホルモン迷走紀行』のバックナンバーは、 双葉社WEBマガジン『カラフル』でお読みいただけます。

 

 

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仲村清司(なかむら きよし)

作家、沖縄大学客員教授。1958年、大阪市生まれのウチナーンチュ二世。1996年、那覇市に移住。著書に『本音の沖縄問題』『本音で語る沖縄史』『島猫と歩く那覇スージぐゎー』『沖縄学』『ほんとうは怖い沖縄』『沖縄うまいもん図鑑』、共著に『これが沖縄の生きる道』『沖縄のハ・テ・ナ!?』など多数。現在「沖縄の昭和食」について調査中。

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藤井誠二(ふじい せいじ)

ノンフィクションライター。1965年、愛知県生まれ。8年ほど前から沖縄と東京の往復生活を送っている。『人を殺してみたかった』『体罰はなぜなくならないのか』『アフター・ザ・クライム』など著書や対談本多数。「漫画アクション」連載のホルモン食べ歩きコラムは『三ツ星人生ホルモン』『一生に一度は喰いたいホルモン』の2冊にまとめた。沖縄の壊滅しつつある売買春街の戦後史と内実を描いたノンフィクション作品『沖縄アンダーグラウンド』を2016年内に刊行予定。

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普久原朝充(ふくはら ときみつ)

建築士。1979年、沖縄県那覇市生まれ。アトリエNOA、クロトンなどの県内の設計事務所を転々としつつ、設計・監理などの実務に従事している。街歩き、読書、写真などの趣味の延長で、戦後の沖縄の都市の変遷などを調べている。最近、仲村と藤井との付き合いの中で沖縄の伝統的な豚食文化に疑問を持ち、あらためて沖縄の食文化を学び直している。

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