日常にある「非日常系」考古旅

日常にある「非日常系」考古旅

#01

リハビリ考古旅

文と写真・丸山ゴンザレス

 

「考古学者崩れジャーナリスト」というプロフィール

 

「先輩、助けてください」

 そう言って、私は母校・國學院大學の研究室に駆け込んでいた。むしろ助けを求めたと言ったほうが的確かもしれない。いったいどんな経緯でそうなったのか――。順を追って説明しよう。

 

「考古学者崩れ? じゃあ考古学者だったんですか?」

 私のプロフィールを見た人からそう問われると、冷や汗が流れる。「崩れ」とは、あくまで「今は違います」というニュアンスのつもりで使っているのだが、そもそも「元」とはいえ、考古学者を名乗るには経歴が半端すぎるのだ。

 これまで崩れだろうが何だろうが、考古学との接点があるという強引な理屈を唱えてこられたのも、私が考古学や大学と接点がない「ジャーナリスト」という生き方を選択したからである。「崩れ」を自称することで、「部外者が何を言おうと、わざわざ文句をつけてくる専門家もいないはず」と思ったからだ。それに、考古学者崩れジャーナリストと名乗っても間違いじゃない理由もある。実は「國學院大學学術資料センター共同研究員」の肩書を持っているのだ。だから、考古学の連載ルポを始めること自体、胸を晴れるはずのことなのに、どこか自信がない。それは、やはり専門知識の欠如が原因だろう。

 前回お話したように、私の考古学知識は完全に忘却の彼方へといってしまっていた。学生時代の知識を忘れてしまうのはよくあること。40代に入れば老化現象も出てくるわけだし、そもそも専門領域の知識なんて、使っていなければ忘れてしまうのは仕方ないことなのだが、正直、少し詳しいだけの人に負けてしまうぐらいの知識しか残っていない。実際、海外の遺跡や外国考古学については、私も出演している『クレイジージャーニー』でお馴染みの“奇界遺産フォトグラファー”の佐藤健寿さんのほうが詳しいぐらいだ。

 一時期は考古学で生きていこうとした人間が「全部忘れました」では、お話にならない。

 

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学生時代の丸山氏

 

 こんな状況に危機感を抱いて、まず詳しい人に聞いてみようと相談した相手は、学生時代の研究室の先輩でもあり、國學院大學博物館の学芸員で同大学の准教授を務めているフカサワ先生こと、太郎さんである。彼の研究室に駆け込んだ私は、そのまま渋谷で飲むことになった。行き先は学生時代からの定番、居酒屋『千両』。渋谷中央街にある名店(史学科の学生の溜まり場)である。

「助けてって、お前さんは何を言っているだよ」

「考古学の連載をすることになったんですが、ほとんど覚えてないんですよ。考古学的な知識とか感覚とか」

「そいつは難儀だな。だからって、すぐにどうこうできるものじゃないだろう」

 太郎さんは大先輩ではあるが、学年では1つしか違わない。考古学畑をきっちり歩いてきて、道を違えた私にも学生時代と変わらず接してきてくれた数少ない先輩の一人である。ここまでの経緯を話しつつ、どうにかならないかとの相談にも、きちんと耳を傾けてくれた。そんな人に迷惑をかけるのは承知しながらも、そこで私は、試してみたいことを一つ提案した。

「どっか、現場ないですかね?」

 考古の世界では、遺跡の発掘現場のことを「現場」という。今さら本を読んで、ちまちま学ぼうとは思わない。せっかくなら、ブートキャンプの要領で一気に思い出したい。なにせ、一度は習得したはずのものである。地道にイチからやるよりは、いっぺんに詰め込んだほうが早いだろう。

「う~ん。現場か……。あ、そうだ。あるぜ、山梨だけどな」

 やはり太郎さんは頼りになる。大した研究もしていないのに研究員として所属していられるのも、そもそも再び大学に潜り込めたのも、彼を中心とした恩師数名の後押しによるところが大きい。そのぐらいのバックアップがなければ、危険地帯を取材して歩くようなジャーナリストが、大学の研究員になれるはずもない。持つべきものは院友(國學院大學での同窓生の呼び名)である。

 

 こうして、山梨の現場に行くことになったのだが、正直、きつかった。何がつらいって、朝がつらい! 考古学の世界ではスタートの時間が早いことを忘れていたのだ。

「朝7時半に大学に集合な!」

 それが数日前に太郎さんから送られてきていたメッセージだった。

 まっとうな勤め人の方々には申し訳ないが、私にとって7時半は“深夜”である。明け方まで原稿を書いて、そのまま寝潰れる生活を何年も続け、取材申し込みのアポに対して、「11時? そんな早朝に行くなんてムリ!」と、何度となくキレてきた身としては、発掘調査のスケジュールは驚異的なしんどさだ。

 だが、どんなにきつくても、自分の都合で相手を待たせるわけにはいかない。寝不足の体を引きずって早朝の大学にやってきた。ところが、時間になっても太郎さんが現れない。仕方なく電話をすると、「地下に来てくれ」と言われてしまった。

 地下とは文字通りの地下室。太郎さんの研究室のある場所のこと。警備員室の前を抜けてお邪魔すると、そこにはパソコンとにらめっこしている太郎さんの姿があった。どうやら、だいぶ前からそんな姿勢を続けているような空気が室内に充満していた。

 私が入室してもなお、お世辞にも片付いているとは言えない研究室で、太郎さんは黙々とパソコン仕事を続けていた。

「わりい、もうちょっと待ってくんな」

 さらに黙々と作業を続けていた。考古学の世界のもう一つの特徴として、時間に正確じゃない人が多いというのがあることを思い出した。

 私は妙な安堵感に包まれながら、ラックに収納されていた報告書や専門書をなんとなく読み出した。学生時代は必死で読んでいたこの手の本も、今となってはいい具合の参考資料。論文を書くプレッシャーもないので、わりと気軽に読めるし、けっこう面白いのだ。特に報告書は自分の記憶と対話するにはいいツールだった。

 過去に私は授業の一環で、大学の研究室で実施した調査を報告書にまとめたことがある。その後、働いた民間の発掘会社で携わった調査でも、何冊かの調査報告書を作成した。あのときにQuarkやIllustrator、Photoshopといった基本ソフトを触った気がする。このときの経験があったから、後の出版社勤務時代にQuarkからInDesignへの移行などにも対応できたのかもしれない。

 意外かもしれないが、考古学をやっていると、本づくりというのはセットで発生するものなのだ。発掘と調査報告書の作成。これがメインの作業である。そして、報告書を作るためには整理作業をしないといけない。今回の旅は、整理作業に入る前の遺跡の発掘現場を見るのが目的なのだと、あらためて心に刻みつけていた。

 そうこうしているうちに、前日までにできていなければならなかったという大事な書類を何枚か出力した太郎さんが、「これでおしまい!」と言って立ち上がっていた。そこでようやく、出発することになった。

 

 

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(左)國學院大學の渋谷キャンパス (中)雑然とした地下の研究室 (右)書棚には専門書がびっしり

 

 山梨までは、都心から中央道を抜ければ2時間もかからない。関東圏の中では行きやすい場所にある。それも山間部をぶち抜く笹子トンネルができて峠道を通らずに済むようになったおかげだ。

 

 

いざ現場へ

 甲府盆地に入ってすぐに、周囲を見渡した。地形をチェックするためだ。同時にスマホでグーグルマップを起動する。地図を見ていると不思議なことに気がついた。甲府盆地の面積は2115平方メートルと、さほど大きな平地ではない。それにもかかわらず、甲府市・山梨市・韮崎市・南アルプス市・甲斐市・笛吹市・甲州市・中央市と、「市」だけで、これほどの数があるのだ。住む人のほとんどが盆地に詰め込まれた感じがする。

「市、多くないですか?」

「まあな。だけど実際に平地を見てみると分かるんだが、平地だけど川が流れていて、そこで区切られているんだ」

 太郎さんの回答は明確だった。実際、笛吹川と釜無川が盆地南西部で合流し、一本の川(富士川)になる。東西に長い逆三角形をYの字に切っている感じとでもいうのだろう。こうした地形の確認は、遺跡が作られやすい環境にあったのかどうか。そんなことを考えるのが考古学徒だったころからの癖である。きっと多くの考古学経験者が同じことを思い描くのではないだろうか。

 実際に、甲府盆地には遺跡が目立つ。特に縄文の遺跡は多いし、弥生の方形周溝墓群も確認されている。古墳に至っては、かなりの数があり、中には甲斐銚子塚古墳(墳丘長169m)のように、大規模な前方後円墳もある。中世のものでは、甲斐国の国府や一宮(浅間神社)、なにより有名な、武田信玄の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)がある。他にも、近代になってシルクロードと呼ばれる「絹の道」ができあがるほど養蚕業が盛んになったことから、それに伴う遺構(建物とかの痕跡のこと)も見つかっている。ざっと挙げるだけでも、甲府盆地がいかに歴史的なバックボーンの太い場所かが分かるだろう。

 ちなみに、ここ山梨は太郎さんの地元でもある。おかげでこの日の宿は、彼のご実家にお邪魔させてもらうことになり、宿代が浮いた。こういう巡り合わせがあると、考古学の調査は非常に楽なものになる。そうでなくても、遺跡の調査では、僻地だったりすると宿の確保が面倒になることが多いのだ。

 

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(左)山梨には竪穴住居(復元)も (右)甲斐銚子塚古墳

 

 甲府に着いた我々は、國學院大學の学生たちが参加している(太郎さんはその様子を見に来た。熱心な先生である)新町前遺跡に向かった。高校のグランドで発見された遺跡で、特色は水田跡から足跡が見つかったことにある。かなりの数がまとまって発見されたために注目されているのだ。他にも、あぜ道が検出されている。

 調査区に入っていって、現場の調査員に挨拶するべく周囲を見渡した。 ちなみに調査員とは現場を監督する立場の人のことで、その現場での絶対的な権力者である。そして、何か問題が起きたときには、もっと上から怒られる責任者、つまり中間管理職的な立場の人でもある。調査の進捗が遅いと自らが率先して発掘作業をする。そのために土にまみれることもあるので、楽な仕事とは言いがたい。

 

 現場に立つと、土の匂いがした。掘り下げられた地面を見ていると昔のことを思い出す。

 遺跡発掘の思い出といえば、 “ドカ掘り”というのだろうか、体格を見込まれた私は、とにかく土を掘っていた。表土(地面のこと)を剥いで、遺物のありそうな地層(これを包含層といいます)近くまで掘り下げる。それが終わったら、次のトレンチ(試し掘り。遺跡の全体像を把握するために掘られた溝)へと移動することを繰り返していた。大変な肉体労働ではあるが、学生時代はパワーも有り余っていたので、同じ作業が延々と続くことぐらいしか不満はなかった。

 むしろ、このドカ掘り作業が、ジャーナリストになってから妙なことに役立った経験がある。それは“死体の遺棄”についてだ。

 以前、裏社会取材の際に人を殺して山に埋めに行くという話をしてくれた人がいた。真偽のほどはさておき、その人が言うには、「死体を埋めるなら5メートル以上掘らないといけない」とのことだった。理由は「地表に近いと、動物が掘り起こしたり、地すべりが起こったりとかで、遺体が露出することがある」のだという。かなり興味深い話だったので、それを聞いた当時、結構突っ込んで尋ねてみた。

「いつも何メートル掘るかは決めているんですか?」

「あんま決めてないんだけど、粘土みたいに固い土が出てきたら、そこに埋めるんだよ」

「あ~、もしかして、関東近県で穴とか掘られていますか?」

「え、なんで分かるの?」

 顔色がサッと変わったのが分かった。だが、私は落ち着き払って、こう続けた。

「関東ローム層といって、粘土の層があるんですよ。それは、地すべりとかでも残ることが多い地層で、流れていくのは、その上の表土だったりすることが多いんじゃないかな」

「兄さん、なんか詳しいね。同じことやってたの?」

「違いますよ。ちょっと考古学かじってて、遺跡の発掘とかで土を掘っていたことがあるんです」

「へえ、じゃあさっきのローム層とかってのも、本当なんだね」

「ええ、まあ」

 このような感じで、せっかく勉強した知識をまったく違うところでつなげることがジャーナリスト活動では多かったように思う。

 ちなみに、この人とは“埋め戻し”に関しての苦労話でも意気投合した。

 私がエンピ投げという、土をスコップで飛ばす技術があると説明すると、彼はそれを興味津々で聞いてきた。このテクニックはスコップの形を崩さないように掘った土を放り投げるものだ。そのほうが、いちいち土をネコ(一輪車)やミ(バスケット)に乗せて運ぶよりも、圧倒的に早いからだ。上手い人だと、数メートル離れている場所から正確に土を放り投げることができる。そのことを説明すると、「人力は限界があるね。重機でいいや」と、にべもなく言っていたのを思い出した。

 

考古学に触れている喜び

 

 現場に来るといろんな記憶の扉が開くものだと思いながら、調査員さんに挨拶を済ませた。そこでの太郎さんと調査員さんの会話は、どうにも懐かしい単語が混じった、考古的なものだった。

「センターにはいかれました?」

「ここの後で行きます。うちの学生たちはしっかり働いていますか?」

「土坑の数が多いので、図面を取れる人が来るのは助かりますよ」

 センターというのは、この調査を実施している山梨県埋蔵文化財センターのことで、土坑とは小さな穴のこと。土杭には遺物が落ち込んでいることもあるし、それ自体が柱を建てるために掘られた可能性もあったりするので、きちんと記録しなければならない。ただし、数が多いと地獄を見るので、慣れていない人にとっては、地獄への入り口のようにも見える。

 そこに図面を取っていた國學院大學の学部生と大学院生たちが寄ってくる。どうやら、取っていた図面を調査員に確認しにきたようだ。

「分層できた?」

「そのあたりを見てもらいたくて……」

「土説は、きちんと書いてね」

 この会話にも懐かしさと記憶の扉が開いた。分層とは、土を見て地層ごとに線を引くことで、土説とは、その地層の説明文のこと。学生時代は、この手の知的な作業をすることが派手でカッコいい作業だと思っていた。だが、調査員ともなると、間違いが許されない、かなり責任重大でヘビーな作業でもある。遺跡をとりまく地層がどうなっているのか、きちんと把握していなければならないからだ。

 そんなことを考えていると、自分が考古学に触れているのだという喜びが、あらためてこみ上げてきた。

「これこれ。こういうのが聞きたかった! これで原稿にもいい感じに書けると思います。ありがとう太郎さん!」

 思わず心の声が漏れた。すると、調査員さんが申し訳なさそうに言う。

「まだ調査中なので、外部には出さないでもらえますか……」

「これは公共事業だったんだ!」

 思わず叫んだ。今度は心ではなく、はっきりと口からだ。

 遺跡の発掘というのは、考古学者が趣味でやるものではない。あくまで行政が主導して予算を立てて実施している調査だ。山梨のように地方自治体が自ら実施するところもあるが、民間企業の遺跡調査会社に委託するところもある。私が渡り歩いてきたのは、そういう場所だったわけなので、行政との関係性は分かっていたはずだ。それなのに時の経過とは残酷なもので、すっかり失念してしまっていた。行政の事業で報告書すら出ていない調査をお手軽にルポというわけにはいかない(もちろん非公開というわけではないし、きちんと申請すれば対応してくれる。特に山梨県さんは柔軟な姿勢を見せてくれます。けっして私が申請するのが面倒になったとかのズボラだったわけではない!)。

 それなのに、こんな初歩的なミスをするとは、考古学者というよりも、ジャーナリストとしてケッつまずいた感じだ。それでも、ここまで見てきた考古学知識は、学生時代に覚えてすっかり忘れていたものばかり。サビが少し落ちた感じがしていた。いよいよジャーナリスト目線の考古学ルポが幕を開ける……気がする。

 

*本連載は月2回配信(第1週&第3週火曜)予定です。お楽しみに!

 

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丸山ゴンザレス(丸山祐介)

1977年生まれ、宮城県出身。國學院大學大学院修了。考古学者崩れのジャーナリスト。フリー編集者。出版社勤務を経て独立。國學院大學学術資料センター共同研究員。TV番組「クレイジージャーニー」(TBS系列)では、世界中のスラム街や犯罪多発地帯を渡り歩く“危険地帯ジャーナリスト”として人気。2005年『アジア『罰当たり』旅行』(彩図社)で作家デビュー。以後、著書多数。【丸山ゴンザレス】名義:『海外あるある』(双葉社)、『闇社会犯罪 日本人vs.外国人 ―悪い奴ほどグローバル』(さくら舎)、『アジア親日の履歴書』(辰巳出版)等。【丸山祐介名義】:『図解裏社会のカラクリ』『裏社会の歩き方』(ともに彩図社)、『そこまでやるか! 裏社会ビジネス』(さくら舎)等。近著『GONZALES IN NEW YORK』(講談社)が好評発売中。旅行情報などを配信するネットラジオ「海外ブラックロードpodcast」では、ラジオパーソナリティーとしても活動中。

双葉社の既刊本好評発売中!!

ISBN978-4-575-30635-4

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