三等旅行記

三等旅行記

#29

巴里は毎日雨です

文・神谷仁

 

「今、非常に私は畳が恋ひしくなつてゐます

 

 

 

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<ひとり旅の記 >

 

  今は夜の十時半です。私はニユーハアベンの港から仏国のデイヱツプ行きの船に乗つたところです。 ドーバア海峡を越えるならば、たつた五六時間で行ける巴里も急ぐ度でもない故、私は遠廻りをして此コースを選びました。倫敦巴里間には、色々なコースがあつて、値段も亦(また)色色違ふのです。私の買つた切符は、ニユーハアベン、及びデイヱツプ経由の一番長くて一番安いコースです。 夜分の八時五十分の汽車でロンドンビクトリヤ停車場を出ると、翌る朝の六時には巴里の北停車場です。賃金は十七円ばかり、ドーバー越へですと、その二倍か三倍はかゝるでせう。

  ニユーハアベンの港はよかつた。尾ノ道のやうな夜景をしてゐました。昼間はどんな風景なのだらうか、波も風も静かで霙が海面に触れあふ音まで聞えるのです。此船は魚も人間も同居で何の事はない荷物船の一隅にゐるやうです。

  巴里から倫敦へ行く時は、税関がとてもやかましかつたのですが、帰りのデイヱツプの仏蘭西税関には、婦人税関吏もゐて、とても女客は気楽でした。 夜更けの船旅は味気ないものです。 まして一人の旅です。私は氷の下でずりさがつてゐる魚の匂ひを肌に感じると、此まゝ何でもなく海へ飛びこんでしまふのではないかと思ひました。私の頭の中では、絶対に死にたくない気持ちで力んでゐるのですが、肉体が無意識に海の上に飛込んでしまつたならば……こんな時に、酒かウイスキイでも持つてゐたら樂でせう。ーー私は唇をあけて霙を舌に受けました。霙は私の眼も鼻も、唇も肩もサラサラと叩いて消えて行きます。 三等船客の板のベンチで、スチームも何も通つてはゐない。七八人の三等船客、皆むつつりとしてポクポク歩いてゐます。歩いてゐるより外に此寒さのしのぎやうがないのです。私は毛布を出して腰に巻きベンチに横になつてみましたが、体中が木片のやうに痛くなるのです。かへつてベンチの上で寝てゐるより、便所の中が温かでした。部屋がせまいせいなのでせう。私はスーツケースの中から、大きな菓子パンを出して囓つたりしました。それでも寒い。

  デイヱツプの港に着いたのが夜明けの五時頃。おぼろげにデイヱツプの波止場が見えます。何だか、釜山の港のやうでした。此船は人間よりも魚がお得意様らしく、私達が降りた時にはもう起重機から魚の樽が降ろされてゐました。全く、汽車へ乗つた時はホツとしましたよ。汚ないながらも温かです。でも日本の汽車で云ふならばこゝは二等位でせう。四人組の部屋で、ニースの小学教師夫妻と私です。蓄音機を鳴らせて聞かせてくれたのですが、大変にぎやかな曲で、頭が半分になりそうでした。寒いのを我慢してゐて、急に温かになつたせいもあつたでせう。 体が溶けてしまいそうなので、スーツケースの上に足を乗せたまゝ私の記憶はぼんやりしてしまつたのです。

「マドマゼル! お前は巴里で降りるのだらう。」 私の肩をゆすつて、切符切りの男が起してくれました。 駅の大時計の下には、「サン・ラザール」と出てゐます。おやおやマドレーヌのお寺に近い駅ぢやないか、で、私は北の停車場に行くのだと云ひますと、此汽車は北の停車場には廻らないでリオンの駅へ行くと云ふのです。周章た私はスーツケースを赤帽に頼むと、淋しいサン・ラザールの駅に降りました。昼間ですと、まるで新宿駅のやうに賑やかな停車場です。何しろ汽車と地下鉄があるのですし、一寸出ると、マドレーヌの寺やオペラに近いのですから。ーー何にしてもへとへとに眠りたい。いつとき私は駅のストーヴにあたりながら宿屋の事について思案したのです。

 ーー巴里は毎日雨です。やつぱり前の古巣へ帰へりました。たゞし街は同じでも宿は違ひます。此ホテルフロリドルは前のホテルの約二倍ですが、どうしたのか此気持ちは自分では判らないのです。今、非常に私は畳が恋ひしくなつてゐます。倫敦の宿で花か動物かもアイマイな、古ぼけたタツピイのある部屋にゐたせいか、座りたくて仕様がないものですから、敷物のある部屋に落ちついてしまひました。私は毎日膝を組んで座つてゐます。座る事が一番楽です。 ねえ、昔、都の花石けんと云ふのがあつたでせう、あの箱の表のやうに桃色じみちた部屋で、ーー巴里のホテルの壁紙は、あまり派手すぎます。いつもレヴユーの幕裏にゐる感じで、私は眼が覚めると、何時幕があくのだらうかと飛んでもない考へをおこす事があります。

 円はこちらではガタ落ちです。去年は日本の百円は、仲々威張つたもので千二百法あまりになりましたが、私がこつちで換へた金は三百円が二千四百法そこそこで、もう千二百法の差がつきます。ーーだが、円がさがつたところで、要するにいゝ仕事が出来ればいい。かうなつては、こつちへ来てゐる、留学生諸君も大変だらうが、文部省も仲々余裕があると見えて淫売買ひと帰朝のあかつきにはバンガロでも建てられるやうな大金を送つてよこしてゐると云ふ、或る人の話でした。でもコクメイに勉強してゐる留学生の人も私は二三知つてゐる。 かう円がさがつては、帰国してバンガロどころのさはぎでもありますまい。

 ーー巴里は毎日のやうに雨が降つてゐます。五階の窓から見降ろすと、ダンフヱル公園の芝生が、一日一日、緑深くなつてゆく。 もう、マロニヱの芽も吹きますでせう。日本だつて桐の芽も櫻の花も咲く。日本の田舎で、梨の白い花の咲く家で少しばかり住んだ事があつたが、マロニヱの芽が出たらどんなだらう、私は帰へりたくなつて何も手につかなくなるでせう。 ペツは元気でせうか。犬の鳴声なんてものは、日本だつて巴里だつて同じ事ですよ。只犬の姿は巴里の方が珍種が多い。俎板のやうな犬だの、毛糸玉みたいだの、婦人連中がよく散歩路を連れて歩いてゐますが、あの犬達は幸福なのだらうか、家のペツだけは野育ちにさせたいと思ひます。 全く犬の奴は好きだ。心がよく通ひすぎます。

 こつちの映画館には、実写ばかりかけてゐる小屋があります。此頃日支戦争の実写があるので、良く出掛けますが、戦争の中で、日本の旗が出たり、日本軍が鉄砲打つたりすると、厭だと云つて巴里人はとても口笛吹いてゐます。おかしなものですね。又、巴里のソシヤリストの大写しが出ても大変な口笛ですし、面白いと思ひました。 私は又、ダンフヱルの近所のシネマにも行きますが、時々ひらいもの的に面白いものにぶつつかります。タゴールが詩を読んだり、ガンヂーが糸を紡ぎながら笑つたり、その他印度の寺の写真や、南アフリカ探検なぞユカイでした。

 三月三日は、日本では雛祭りで、桃の花の見られる日ですが、巴里でもミカレームと云つて、子供の祭がありました。 荒物屋では、シラノドベルジユラクだの、道化たチヤプリンなぞのお面を売り出したり、縮緬紙で出来た帽子や小鳥や、大根のやうな赤唐辛子や風車なぞを売り出してゐます。親達は自慢もので、子供達に仮装させて街を練ります。シヤンゼリゼーのブルジユワ街では、シルクハツトの子供紳士や、デコルテの子供淑女が多かつたそうですが、此辺の街ではオランダの田舎娘や、馬乗り姿や、ピヱロや、様々の衣装で、貧しいながら、街は子供と風船で賑やかでした。

 私は、此頃アリヤンセの夜学にはいりました。私のクラスは十人足らずですが呑気ですよ。一ヶ月百法の月謝で、大変安いと思ひます。初めから一寸した短篇で、今は婦人が手袋を買ひに行く物語りまでやつてゐます。恥を云ふと、私が一番下手で一番発音がまづい。私の臨席のポロネヱの紳士は、私のノートに皆写してくれて、チヨコレートまでくれるのですが大変気の毒です。

 ずつと前、早稲田大学に少しばかり通つた事がありましたが、教室の感じがよく似てゐました。 私は此学校へ来て二人のヱストニヤ婦人と仲よくなりました。ヱストニヤと云ふ国を貴女は知つてゐますか。地図で云ふならば、露西亜の上の方にあります。小さいところです。大変寒いそうですが、こゝの切手は、美しい部では随一でせう。三匹のライオンだかゞ三の字に描いてあつて、朱だの、青だの、緑だの、あります。若い女の方へ遊びに行つたのですが、とても古めかしいパンションにゐて、何だか、私は倫敦の下宿を思ひ出しました。クツシヨンなぞも腐れかけたまゝで、何年もその位置におきつぱなしのやうな部屋でした。 こゝの女主人は亡つた夫と云ふのが小説家だと云つて、=NED.JMA-RAOULDERIVAS.SO=と云ふ、此様な単行本をくれました。女の名前だそうです。 此、ヱストニヤの女の古里はまた素的です。急にヱストニヤに行きたくなりました。麦の刈り入れ頃の姉妹の写真を見ましたが、手も足もむき出して、全くハツラツとしてゐました。ーー私は靴下をはく事がとても嫌ひなのです。手も足もむき出しで麦束の上を転んでみたい。 ヱストニヤ婦人はヒルダアと云つて、仏蘭西語は私の大先輩です。玄関に、サロンに、寝室に、台所に、押入れなぞついて四百法、御飯が二食で四百五十法だそうです。部屋は広いばかりで、全く古びた歴史陳列部屋と云つた体で、私なんか一週間で気が狂つて、女王様になつた気になるでせう。こゝにも毛糸玉のやうなボビイと云ふ白犬がゐるが、どうも顔中なめたがつて困つてしまひました。

 今日は風が強い、私は風を引いて寝込んでしまひました。窓は五階です。只青い空と雲だけ、あの雲は日本から来たのでせうか。 私は当分ベツドに休息して、四角い青い窓でも見ながら、巴里の街の音を聞いていませう。

 ーー本当は何か考へる事でいつぱいなんですよ。

 

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< 解説 >

解説 一ヶ月のロンドン滞在から船でパリへと戻った芙美子。芙美子の当時の日記によれば、深夜に港に着き、そのままパリへと向かい早朝に到着。ホテル・フロリドルにて一泊し旅に疲れを癒したようだ。

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倫敦の宿で花か動物かもアイマイな、古ぼけたタツピイのある部屋にゐたせいか、座りたくて仕様がないものですから、敷物のある部屋に落ちついてしまひました。私は毎日膝を組んで座つてゐます。

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上記の分に出てきたタッピイとは絨毯のこと

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(前略)フロリドルにパトロンを叩きおこして、三階の小さな部屋へ泊まる。赤いタツピが敷いてあって可愛い部屋だった。 (林芙美子『巴里の日記』(昭和22年・東峰書房刊)より)

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上記はパリ滞在記として戦後出版された日記の記述だ。そして当時、実際に書いた日記の原文は以下のようになっている。

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(前略)ホテルフロリドルに宿をとる。五百フランだが、妙に疲れているせいか、こんなタツピイのある部屋に当分ゐたかったので、高いがきめてしまう。 (『林芙美子 巴里の恋ー巴里の小遣ひ帳、一九三二年の日記、夫への手紙』(今川英子編・中公文庫より)

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この部屋には4月6日まで滞在したとの記録が残っている。ちなみにこのホテルフロリドルは現在もまだ営業しているので、パリに行った際に泊まってみることもできる。

 

 

 

 

 

 

 

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 *現在のホテル・フロリドール。一つ星の評価を受けているホテル

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
                         

                                                         

      *この連載は毎週日曜日の更新となります。次回は3月12日です。お楽しみに。           

 

                     

 

 


 

                                                                                                 

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林 芙美子

1903年、福岡県門司市生まれ。女学校卒業後、上京。事務員、女工、カフェーの女給など様々な職業を転々としつつ作家を志す。1930年、市井に生きる若い女性の生活を綴った『放浪記』を出版。一躍ベストセラー作家に。鮮烈な筆致で男女の機微を描いた作品は多くの人々に愛された。1957年に死去。代表作は他に『晩菊』、『浮雲』など。

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