風まかせのカヌー旅

風まかせのカヌー旅

#28

お墓参り

パラオ→ングルー→ウォレアイイフルックエラトー→ラモトレック→サタワル→サイパン→グアム
★離島の地理歴史など基本情報はコチラ

 

文と写真・林和代 

 

 

  

IMG_1580.JPG

 

 

 2006年。初めてサタワル島にやって来た時のこと。

 沖合いに停泊する連絡船から渡し舟に乗り移った私は、マウが住む村レマノンへと向かった。

 ものの5分で浜に到着。私はまずボートを降りた。そこはまだ膝上まで水がある浅瀬。そこで、ボートに残した荷物をえいやあっと担いだ瞬間、うっ!

 腰に激痛が走った。まさか、これがぎっくり腰というものか。

 ボートはそんな私には一切気づかず、さっさと戻ってしまった。

 呆然としながら浜を眺めるも、誰もいない。

 せめて重い荷物を置きたいが、ここはまだ海の中。陸は2メートル先。

 なんとかあそこまで辿り着かねば。

 やけくそになった私は、わーっと叫びながら強引に陸まで走り、荷物をどっと投げ出すと、そのまま浜に倒れこんだ。

 

叫び声を聞きつけたか、やがて子供達が現れると、私の荷物を運んでくれた。

 さて、次は私だ。いつまでもここで伸びているわけにはいかぬ。

 勇気を出してそっと立ち上がってみると、立てるし歩ける。ただし、腰は90度に曲がったまま。

 やむなくその体勢で子供達の後を追うと、家の前で待っていてくれたマウを発見。満面の笑みでハグ

したものの、マウは怪訝な面持ちを崩さずこう言った。

 どうした? 腰か? じゃあ娘にマッサージしてもらえ。

 そうして現れたのが、マウの長女、ネウィーマンだった。

 

 英語を解さぬ彼女は、黙って私を暗い部屋に連れていくと、1時間もマッサージをした上、ココナツオイルに漬けてあったたっぷりの薬草を腰に塗ってくれた。

 特に愛想がいいわけではないが、なぜかするりと甘えてしまいたくなる、そんな人だった。

 

 彼女は病気のマウを看病するため、本来の家であるオイソウを離れ、家族と一緒にマウが住むレマノンで暮らしているとのことだった。 

 私より10歳年上。ママというより姉と呼ぶべき年齢だが、その存在は明らかにママだった。

 

 彼女は、ほぼ寝たきりの私に毎日薬草の湿布をし、マッサージを施してくれた。

 腰が良くなってからも、私はほとんどの時間、彼女と過ごした。

 日々の料理や水浴び、タロイモ畑の仕事、ラバラバ織り、タコ採り。

 島の女の仕事を次々とこなす働き者の彼女は、ずっとサタワル語で私に話し続けた。

 おかげでほんの少し、現地の言葉を覚えることができた。

  

 

IMG_1255

丸焼きにして、皮を剥いたパンの実を延々とパウンドする。これをママは私に仕込もうとしたのだが、私があまりに要領が悪く、挫折した。

 

 

 

 ある晩、彼女は私に、ウェネッピー(ビーチ)と言った。

 暑いから、ビーチで寝ようというのだ。

 私と彼女、そして彼女の孫であり、私の「娘」、当時5歳のトレイシアの3人は、枕と上掛け用のシーツを手に家をこっそり抜け出すと、ビーチにごろりと寝転んだ。

 雲の隙間から満月が顔を出してあたりは明るく、時折吹くそよ風がとても気持ち良かった。

 彼女たちはなぜか、私に島の昔話を語り始めた。しかし100%サタワル語。

 私に理解できた単語は、「女」と「タロイモ畑」「おばけ」の3つだけ。

 当然ながら話はなに一つ理解できない。

 それでも二人はなんとか私にわかるように、ジェスチャーを交えつつ、その物語を続けた。

 途中、私が日本語でわかんなーいと突っ込むと、トレイシアがマネをしてワカンナーイ!と連呼。 

 あまりの通じなさに大笑いしながらも、延々3時間、お話は続いた。

 すっかり懐いたトレイシアの、スベスベした二の腕を触りつつ、ネウィーマンからほんのり漂うココナツオイルの甘い香りを嗅ぎながら、私はこの気持ちのいい親密な時間を心底楽しんだ。

 

 

  

IMG_1592.JPG

初めてサタワルに滞在した3週間ほどで、ママは私に島の女の必須アイテム、ピンクのラバラバと、リハトゥットゥルと呼ばれる大きなビーズネックレスを作ってくれた。更には、彼女のクランに伝わる女の用のアイランドネーム、ノムロニヨンという名を私にくれた。直訳すると、ラグーンに浮かぶブロンズ色のココナツの実、らしい。

 

 

 それから、サタワルを訪れるたび、彼女は出来損ないの娘の私をいつも面倒見てくれた。  

 やがてマウが亡くなり、グアムで彫られたマウの墓石をマイスで運ぶ航海が、2011年に行われた。私もそれに同乗してサタワルに行くと、なんとネウィーマンは伏せっていた。

 末期の癌だった。

 

 やせ細り、青ざめて、見るからに衰弱した彼女は、オイソウの家の中央で布団に横たわり、その周囲には姉妹や親族、近所の女性たち30人ほどが集まって座っていた。

 私が家に入るなり、あんたは娘なんだからとネウィーマンのすぐ隣の場所に座らされた。

 その時から看病の日々が始まった。

 夕方になると女性たちは集まり始め、芋洗状態で寝泊まりし、朝になるとそれぞれの家に戻って行く。

 私と女性たちは、交代でネウィーマンをうちわで扇いだり、マッサージをしたり。

  

 でもその係は2、3人。あとの人々は辛そうなネウィーマンの周りで、手仕事をしたりおしゃべりして大笑いしたり、時にはみんなで歌ったり踊ったり。

 瀕死の病人の看病中とは思えぬ陽気さで私は少々たじろいだが、こういう習慣なのだろう。

 とにかくみんな、夜はずーっとネウィーマンと一緒だった。

 そんなある日の昼間。一人のグアム人クルーが私を訪ねてきたので外に出ると、お腹が空いたという。私が近くにあったバナナを渡そうとした時、トイレに起き出したネウィーマンがこちらを見て言った。

「カッツ、それよりこっちのバナナの方が熟れてるから、こっちを食べさせてあげなさい。それから、Tシャツまた脱ぎっぱなし。また子供達が勝手に着るから、ちゃんと片付けなさい」

 脳にも癌が回っていて、モルヒネを打っているのに、それでもやっぱりママだった。

 

 そうして看病の2週間が過ぎ、いよいよマイスが出港する日が来た。

 出港間際、彼女に別れを告げに行った時、自分でも驚くほど号泣したことを覚えている。

 その二ヶ月後、彼女は旅立った。

 

Satawal Island

ネウィーマンの看病中の私と一家。[PHOTO by Phillip Engelhorn]

 

 

 今回、サタワルに着いてすぐ、ヘンリーナに頼んで連れて来てもらった彼女のお墓は、学校のすぐ隣にあって、賑やかな子供達の笑い声が響いていた。

 私は、オサムに分けてもらった線香を焚いて、しばし合掌した。

 

サタワル墓ネウィーマンのお墓。よく手入れされていた。供えられているのは、息子の卒業式のお洋服。

 

 

 

 この墓参りを終えた私は、レマノンに行ってくるとヘンリーナに言い残し、村の小道を歩き始めた。

 かつて、なんども通ったこの道。

 さすがに5度目の来訪なので、いくつも知った場所があり、懐かしい顔にも出くわした。 

 一番北にあるレマノンは、とても静かだった。

 まずは、酋長の家をのぞく。すると、いた。ネウィーマンの妹のひとり、ロジーナだ。

 彼女も英語を話さないが、いつもステキな笑顔で迎えてくれる。

 彼女としっかりハグを交わすと、二人でマウの家をのぞいて見た。

 今は、酋長とロジーナ夫妻の物置になっていた。

 ど真ん中に鎮座していたマウの寝床はもうない。

 それでも、家に入るなり蘇る。

 ネウィーマンはいつもあそこに座って手仕事をしていたな。

 私とトレイシアはこの辺で一緒に蚊帳に入り込んで寝てたっけ。

 

 少し胸が苦しくなって来て、家を出た。そして、正面にあるお墓にお参り。

 マウとその母、妻のお墓。そして、マウの隣、一番新しいお墓には、弟ウルパが眠っている。

 かつて2度、マイスで一緒に航海した盲目のナビゲーター、ウルパも2012年に亡くなっていた。

 生前、兄弟は共に優秀なナビゲーターだったが、仲が良かったとは言い難く、いつもケンカばかり。

 それでも二人きりの兄弟、隣に眠っていてくれてなんだかホッとした。

 

 私は、再びお線香を焚いて、手を合わせた。

 実は他にも、お参りしなきゃならないお墓が2つほどある。

 いつの間にか、いなくて寂しいと思う人がこんなにもできていたいんだと思い知る墓参りなのであった。

 

 

DSC06507レマノン村の墓地。右がマウ。左が弟のウルパ。マウのお墓には、グアムから運んできた墓石も据えられている。そこにはミクロネシア式のシングルアウトリガーカヌーが象られている。[PHOTO  by Osamu Kousuge]

 

 



*本連載は月2回(第1&第3週火曜日)配信予定です。次回もお楽しみに!

 

canoe_routemap

 

 


クルー1クルー2

 

 

 

canoe-trip00_writer01

林和代(はやし かずよ)

1963年、東京生まれ。ライター。アジアと太平洋の南の島を主なテリトリーとして執筆。この10年は、ミクロネシアの伝統航海カヌーを追いかけている。著書に『1日1000円で遊べる南の島』(双葉社)。

風まかせのカヌー旅
バックナンバー

その他のTRAVEL

ページトップへ戻る

ページトップへ戻る