三等旅行記

三等旅行記

#13

プロレタリヤ国

文・神谷仁

日本で知ってゐた露西亜と大違ひ

 

 

 

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< 巴里まで晴天  三 >

 

 三等列車の洗面所と来たら、二等のとは雲泥の違ひで、水も出なければ、鏡も破れたままだ。プロレタリヤ国だ仕様もないだらう。それに、かう広くては、ーー短い期間にロシヤを知らうとする事はあまり図々しすぎもするだらう。ーーだが、三等列車内の色々の人情のうつり変りは、露西亜の一隅を知るに充分である。

 チエホフの小説に出て来る、平凡な各階級の人物は、さう今も昔も変りはないだらう。

 二十日、晴天だ。ーー夕方ヴオルガの鉄橋を二ツも越した。汽車の窓から見ると、一寸安東にも似てゐるし、川崎あたりにも似てゐるが。霧がいつぱいあつた。工場の煙突から白い煙がムクムク上がつて、鉄橋の下には筏や、小舟が背を寄せ集めて、河幅は海のやうに広い。こゝでも女工夫が鉄道を造つてゐた。こゝへ来ると、私は何時の間に雪が消えたのだらうと思つた位、あたゝかで小麦色のブクブクしてゐる土を見た。

 ヴオルガを過ぎた辺の小さい駅で、私達の部屋に泊つた、あの二人の商人体の男達は降りて行つた。同室の女はあの男達が行つては淋しいだらう……と、そんな風に、私は東洋風なカイシヤクを下して、可愛い女を見てゐたが、女は窓から覗かうともしないで、何もなかつた風に軍艦の絵のある本に読みふけつてゐた。下車した二人の男は、汚れた袋を背負つて、長いシユーバアをポリポリ引ずりながら、駅の前の工場から笑ひながら曲つてしまつた。

 軍艦の本はかなり厚い頁だ。女は十四五頁も読むと、それを腹の上にほうり投げて、又コンパクトで鼻の頭を叩き、茹で玉子を出して呆然としてゐる私に一ツくれたりした。

 二十日の午後四時にモスコー着の予定の汽車が、モスコーに着いたのは夜の午後九時頃であつた。屋根の無いホームに列車が這入ると、乗客はほとんどモスコーで下車してしまふ。

 同室の彼女も、板製のトランクを赤帽に持たして元気よく手を振つてピオニール達と降りて行つた。乗客が去つてしまふと、妙に森として、只遠くの方から女性のコーラスが聞えて来るきりであつた。ーー此汽車がベロラスキーの停車場へ廻つて、モスコーを発車するまでには、三時間ばかりも時間がある。その間に、満洲里で託された書類を廣田大使のところまで持つて行かなければならないのだが、夜更けではあるし、初めての土地ではあるし、改札口へ出るのにどんな手続きがいるのか、そんな事を考へながら、焦々してホームに降りてゐると、大毎の馬場氏がポクポク歩いて来られた。

「やれやれ、助かりましたよ。」

「何です?」

 落ち着いた馬場氏に連れられてホームを出た。駅の前には、三角巾で頭を巻いた若い女の行列が、大きな声で勇ましい歌を唄つてゐた。あゝモスコーだ。働く人の街だ。一週間ほど滞在しませんか、馬場氏が親切にかう云つて下すつたのだが、金が無いのであきらめてしまふ。日の丸の旗のついた自動車に乗せて貰つて、街を見せて貰ふ。数寄屋橋の停留所のやうなプウシユキン広場、広場の商店の飾窓には、毛皮や、鞄や、シヤツなぞが出してあつたが、たいていは赤い布だけさげて、何も商品のない店が多い。雪が降つてゐないせいか、とても人出が多く、皆熊のやうに着物を着込んでゐた。

 言葉の通じないせゐもあらうが、全く不思議なインシヨウになつてしまつた。何故なら私の眼にはいつた露西亜は、日本で知つてゐた露西亜と大違ひだから。日本の無産者のあこがれてゐる露西亜は、こんなものだつたのだらうか! 日本の農民労働者は、露西亜の行つた××にあこがれてゐるのだ、ーーそれだのに、露西亜の土地もプロレタリヤは相変らずプロレタリヤだ。すべていづれの国も特権者はやはり特権者なのだらう。あの三ルーブルの食堂には、兵隊とインテリゲンチヤ風な者が多かつた。廊下に立つて眠つた者達の中には、兵隊もインテリゲンチヤもゐない。ほとんどはたらきどう風体の者ばかりではなかつたか。

 古い日本の新聞を読むと、(十一月八日)東京ソヴエート大使館においては、お茶の会、ソヴエート友の会があつたと云ふ事だ。貧しい人達と一緒に汽車旅をしてゐる私には、一寸此記事はカンガイ無量であつた。ソヴヱート愛好者を集めて、あの白いすつきりとした麻布のソヴヱート大使館では、茶菓が出、活動写真が見せられ、列席者、何々氏何々女史等等、ーー妙に胸寒さを感じ、棒のやうにつゝぱつて眠つてゐる寝床の買へない露西亜人達の顔を私はまぶしく見たのだが……。なぜ、ソヴヱート大使館では、職場に働いてゐる日本の労働者を呼んではくれないのだらう。何々氏何々女史も結構ながら、此人達は、プロレタリヤ愛好者で、有閑紳士淑女に外ならない名前だ。ーーモスコーの母親へ会ひに行くピオニールは、何度も手を出して私にパンを呉れと云つた。食堂は金を持つてゐる者の為にのみくつゝいて走つてゐるかたちだ。

 だが、けつして、私は露西亜を悪く云ふのではない。私はロンドンまで来て、一番好きな人種は、やはり露西亜人だつた。露西亜の田舎の姿であつた。

 

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<解説>

いよいよモスクワに到着した芙美子。同じ列車に乗り合わせたロシア人たちともここでお別れだ。〝旅は道連れ〟とはよく言ったもので、彼らのことでぼやいていた芙美子も、モスクワに着く頃にはすっかり親近感を抱いていたのか、別れには少し感傷的になっている。
 芙美子はロシアの人々を「プロレタリヤ」、「労働者」という言葉とともにその様子を書く事が多い。
 これは1917年の革命でロシアが、資本家や特権階級のいない、労働者による平等で公正な社会を標榜した、社会主義共和国になったからだ。
 ロシア革命は世界各地の、人々に大きな衝撃を与え、世界各国で共産主義運動が盛んになり資本家や政治家などを狙ったテロなども相次いだ。日本でも1925年には、、国体や私有財産制を否定する運動を取り締まることを目的として制定された治安維持法が制定され、共産主義者は弾圧されるようになった。
 しかし、1929年には世界恐慌が起こり、さらに資本主義への失望感は増していき、共産主義に期待する人は増えていった。
 ある意味では、共産主義に共鳴する人にとっては、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国は、目指すべき憧れの国だったと言っても過言ではない。
 芙美子は、もともと貧しい家庭で育ち、東京でも『放浪記』売れるまでは、爪に灯をともすような暮らしをしていたし、交友関係にも共産主義運動をしている人も多数いた。
 芙美子自身に共産主義的思想はなくとも、彼女がロシアの人々に、なんとなくシンパシーを感じてしまっていたのもそんな背景があったからだろう。

 

 

 

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日本の農民労働者は、露西亜の行つた××にあこがれてゐるのだ、ーーそれだのに、露西亜の土地もプロレタリヤは相変らずプロレタリヤだ。すべていづれの国も特権者はやはり特権者なのだらう。
 

 

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上記の分で××となっているのはおそらく〝革命〟だろうか。しかし、共産主義者の理想郷と思われているロシアでも、「すべていづれの国も特権者はやはり特権者なのだらう」という現実を、しっかりと看破しているのはさすがだ。

 

 

 


 

 

 

 

 

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肉体労働をするロシア人女性。〝女性も労働者である〟という社会主義の宣伝のためか、当時のロシアを撮影した写真には工事現場などで働く女性の姿を写したものが多い。(『世界地理風俗体系8 ソビエト・ロシヤ編』 昭和6年・新光社)
 

 

 

 

 

      *この連載は毎週日曜日の更新となります。次回更新は11/6(日)です。お楽しみに。           

 

                     

 

 


 

                                                                                                 

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林 芙美子

1903年、福岡県門司市生まれ。女学校卒業後、上京。事務員、女工、カフェーの女給など様々な職業を転々としつつ作家を志す。1930年、市井に生きる若い女性の生活を綴った『放浪記』を出版。一躍ベストセラー作家に。鮮烈な筆致で男女の機微を描いた作品は多くの人々に愛された。1957年に死去。代表作は他に『晩菊』、『浮雲』など。

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